哀婉夢
あいえんむ
序章
声がしたんだ……。
暗く、重い。それでいて人を引き付けて止まない甘い囁きが……。
――快楽はほしくないか
それは問いではなく確認であった。
私はその時何のためらいもなくそれを受け入れた。いや、縋ったのだ。
それが、唯一の救いであるかのように。
「欲しい! 何でもいい。私を助けてくれ!」
無我夢中で叫んだ。
――心得た。二言はないな
念を押すような声に必死に頷き返す。
――では、助けよう
同時に全身に重く伸し掛かっていた何かから解放され、目が覚めた。
夢……。
安堵の溜息を漏らした。が、その直後闇の中にそれを見た。
黒衣の麗人を。
夢などではなかった。
1
「……はい、どちら様ですか」
インターホンを押した彩佳は、驚いたように目の前の人物を凝視した。想像していた人ではなかったからだ。間違えたかと思い表札を見た。
間違ってなんかいない。では、目の前に立っているのは誰だろう。黒く長い髪を後ろで一つに束ねている。精悍な顔は少壮の男のものだ。切れ長の目に引き締まった口もと。
か、かっこいいかもしれない……。
思わず見惚れる彩佳に男は再び声をかける。
「何か用かな?」
「あ、ご免なさいっ。あの、私、隣のものですけど」
ちらっと男を見上げて問う。
「ここ、清明さんの家ですよね?」
彩佳の言葉に男は破顔した。精悍な顔が崩れて親しみやすい男の顔になった。
「皓、誰?」
「ああ、清明」
まだ笑いの余韻を残したまま振り向いた男の向こうに見知った顔を見出して彩佳はほっとした。いくらか顔色はすぐれないようだったが、少しもその美貌を損なってはいない。
青年は男の背後に少女を見つけて微笑んだ。
「こんにちは、瀬野さん」
涼やかな声が鼓膜を叩き、彩佳は顔を朱色に染めた。
「あの、具合悪いって管理人さんに聞いたから、一人だし、どうしてるかなと思って。お見舞いに……」
「上がってもらったら?」
「ああ。瀬野さん、どうぞ」
男に促されて清明が彩佳を招き入れる。
「お、おじゃまします」
居間に通された彩佳は、にこにことお茶を入れてくれる男を見つめた。清明と似ているような気もするのだが全く違うような気もする。
彩佳の視線に気付いたのか、男がにっこりと微笑んだ。
「俺の顔に何かついているかな?」
「皓」
明らかにからかうような男に、嗜めるように清明が声をかける。やれやれと肩を竦めて見せる男に、鋭い視線を投げつけて彩佳に向き直った。
「気にしないでいいよ。こういう奴だからね」
「はい。でも清明さんとはどういう関係?」
ぷっとまた男が噴き出した。何がそんなにおかしいのか、笑い転げる男を清明が呆れたように見遣る。
「皓、いい加減にしないか。彼女に失礼だ」
「すまん」
ようやく笑い収めた男は短く詫びると口を開いた。
「申し遅れまして。俺は皓。清明の兄です」
「えーっ、そうなんですか」
「……皓、冗談は一度までなら許す。二度目はないぞ」
皓のいれた紅茶を飲みながらさり気なく訂正を要求する。
「ご機嫌斜めだな。兄というのは冗談で、本当は従兄。今は看病に来てるだけ」
「そういうこと」
清明はそういうとカップをテーブルに戻した。黒いハイネックにブラックジーンズが清明の顔色の悪さをよけいに引き立てている。その美貌だけに今にも倒れてしまいそうなほど儚げだ。
しばらく世間話のようなものを交わした後、名残惜しそうに彩佳が言った。
「じゃあ、私もう帰ります。皓さんもいらっしゃるし」
立ち上がって皓にぺこりと頭を下げる。
「どうもごちそう様でした。皓さん。清明さん、お大事に」
彩佳がそう言ってドアの向こうに姿を消すと再び皓が笑い出した。
「いいねえ、あの子。清明が一般人に見える」
「皓。いい加減にしない――」
言葉の途中で清明の身体が前のめりに倒れた。それを皓の逞しい腕が支える。そのまま抱えあげベッドに横たえる。
「余程堪えているようだな」
皓の言葉には答えず、秀麗な眉をしかめる。
それはちょうど一週間前のあの夜。
昔の夢。
幼い自分が誰かを捜している。見知った自分の家の庭。しかし、こんなに暗かっただろうか。
そこはまるで別の空間であるかのように夜でもないのに薄暗く、空気が重かった。
前方に人影。蹲っている。
あれは誰だ?
その影は、この重い空気に押し潰されるのを耐えるように膝を抱えていた。
近づくにつれ、影が男であることがわかる。
知っている?
ゆっくりと振り返る影。
疑惑が確信に変わる。
知っている!
よく知っていた男。兄のように慕っていた。その力ゆえに道を踏み外し、自分の父によって闇の中に封じられた男。
何の前触れもなくそれは来た。
突然全身を貫いた鋭い痛み。と、同時に幼い自分が膝をつく。
どうやら夢の中で感覚を共有しているらしい。
何かが身体中に絡みついている。糸のような、それよりもっと細い何か。
『清明殿。私めの挨拶気に入ってもらえただろうか』
口もとは動いていない。男の声だけがそう告げた。
『これから毎日すこしづつ私が指を動かせば、やがて貴殿のその美しい顔は切り裂かれる苦痛で歪み、痛みにのたうちながら果てる。これはなかなかにおもしろい見世物だと思うのだが。いかがかな? そうそう一つ言い忘れた。私の妖糸は貴殿御自慢の妖刀でも断つことは叶わない。無論糸を手繰ることもだ』
幼い清明はただじっと聞いている。顔を伏せているため表情は判らない。
『万が一に会い見えることとなれば、この命貴殿に喜んで差し上げよう』
そうして夢は覚めた。その妖糸のみ残して。
もし、暗殺者が清明の伏せた顔を覗くことができたならば、その美しい顔に凄艶な笑みを見ることができただろう。それこそが彼が狩人たりえた所以である。
月光もかくやと言われる美貌にその笑みが浮かぶとき、彼は見るものを死へと誘う魔人となる。
「――それにしても、杜はどこまで行ったんだ? もう一週間。そろそろ帰ってきてもいいころだが」
杜は清明に絡みついた妖糸を追っているのだ。まだ連絡はない。
「さあ、どうかな」
「さあってお前な。このままだと死ぬぞ、冗談抜きで」
真剣に言う皓に笑みを向け、上半身を起こす。痛みはおさまった。
「切ろうと思えば切れないことはない。だから、危なくなったら切る。でもぎりぎりまで待ってみる。アレのこともあるし」
とつけっぱなしになっていたテレビを見遣る。テレビは最近起こっている無差別殺人事件について報じていた。
「ああ、これね。麻耶が探ってはいるが手がかりなしだな。ところで水城はどうしてる?」
「ろいろ調べてはいるみたいだけど。水城は雑念が多いから」
「困った奴だ」
皓の言葉に軽く頷きながら立ち上がると、テレビのチャンネルを変えた。
ニュースがくり返し伝える。
『――昨晩未明、Tホテルの十五階1503号室で男性の死体が発見されました。被害者はU会社社長の沢木良一氏、五十三歳。犯行の手口から、犯人はここ一週間の間に起こっている無差別殺人事件の犯人と同一人物であるとの見方が強まっています。警察は猟奇的な犯行と見て捜査を進めて……』
清明がテレビを消した。座っている皓を見下ろして口を開いた。妙にきっぱりと断言する。
「魔物が絡んでいるな」
「何故そう思う?」
「勘だよ。……もっとも、外れたことは一度もないけど」
そう言った清明の顔は陶器のように透明で、美しい。そんな清明の顔を見るとき、皓は改めて清明が狩人であることを思い出すのだった。
再び苦しげに顔をしかめた清明に我にかえって皓は言った。
「ま、とりあえずそれは麻耶に任すとして。お前さんはまずその糸何とかしろや」
「水城が来たようだ、皓。僕は疲れたから先に休ませてもらう。水城の話を代わりに聞いておいてくれないかな。じゃあ頼んだから」
皓に言葉を挟む隙を与えず、言うだけ言うと清明は皓を部屋から追い出した。
「こら、おい、清明っ」
ドアの向こうから聞こえる皓の声を黙殺する。その皓の声に被さるようにもう一つの声が重なった。
「たっだいまー。ちゃーんと調べてきたよ。……あれ、清明は? 寝てるの? じゃあ、皓でもいいや。聞いてよ。すごいんだ……」
清明は疲れたように吐息を漏らすと目を閉じた。
2
月までが赤く染まった夜。
感情のない二つの瞳が異様な輝きを放っている。それが床に転がったものをじっと見下ろしている。月明かりに浮かび上がるそれは血だまりに浮かぶ一つの肉塊だった。
ぴくりとも動かない。そっと足で押してみる。と、それはごろりと音を立ててこちらを向いた。瞳孔の開き切った目が恨めしそうにこちらを見た。
「あ……あぁ……!」
突然立っているほうの影が低い呻き声を漏らした。それは人間の男のものだ。
自分が戻り始める。がたがたと震え出した己の肩を抱いて転がるようにバスルームに駆け込む。蒼白なのは今更確かめるまでもない。
「う……っ」
鏡に映った己の姿のあまりの醜悪さに心臓が凍りついた。全身は返り血を浴び真っ赤に染まり、血を啜った唇が艶かしい。生臭い臭いから逃れたくて、衣服を脱ぎ捨てシャワーをひねった。身体を洗う手に次第に力がこもる。
まるで、己の犯した罪を洗い流すかのように執拗に。 シャワーを止め、血に汚れた衣服をダストシュートに放り込むと、クローゼットから新しい衣服を取り出して身に付けた。ふと、部屋を見渡すと先程の己の行為が頭の中でフラッシュバックする。蹲るように頭を抱え罪の重さに耐える。
あんなものは人のすることじゃない。……人間のすることじゃ……ない……。私、私は……。
刹那、男は窓から身を躍らせた。
十五階の窓からである。ここから落ちれば下はアスファルトだ。確実に助からない。
傷一つなく着地に成功した男は、一つ頭を振って大きな溜息をついた。
死ぬこともできない、か。
やつれた頬に自嘲的な笑みを閃かせると、男は何事もなかったかのように表通りへと歩き出す。
こんなことをもう何度くり返しただろう。
男は数える気にもならなかった。
男が去った後、暗闇の中を小さな影が駆け抜けた。それは小さくにゃあと鳴くと、男が歩み去った表通りへと姿を消した。
3
穏やかな昼下がり。何も起こるはずのない、平平凡凡とした日常がくり返される街角で、突如それは起こった。
「人が倒れたぞっ!」
悲鳴のような誰かの声。
一人の青年が道に蹲っている。
人々が足を止めたのは、その青年の美貌のせいではないだろうかと思わせる秀麗な顔が、苦痛に歪んでいる。
声もなく道路に崩れた身体から赤く滲み出した血が、衣服を染めていく。
「血が……!」
騒然となる通り。飛び交う声。それらを聞きながら、青年=清明は待った。
皮膚を裂く妖糸も切らずに。
願うなら今すぐにでも妖糸を切りその苦痛から逃れることができるというのに、彼はそうしようとはしなかった。ただ、耐えるように目を閉じていた。形のよい額にうっすらと汗が滲む。
「おい、大丈夫か」
心配そうに通行人が問いかける。そのまわりを集まってきた野次馬が囲む。
「どうしたんだよ、いったい……」
「救急車はまだか?」
その声が聞こえたかのように救急車が到着する。
「怪我人はどこですか!」
「こっちです」
側の男が救急隊員を呼ぶ。
「どうしました」
「わかりません。この人が突然倒れて……」
「救急車は要りません。大丈夫ですから……」
はじめて清明が口を開く。蒼白の顔は大量に血を失っ
ていることを示していた。
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