紅い瞳の彼方


 序章


 大陸全土に渡って続いていた戦乱は、五年前、国王暗殺の容疑をかけられた侯爵家の一派、王の忠臣達、この二派の間に起こったもめ事に端を発する。
 疑惑が血臭に満ちたものとなったのは必然であった。
 その戦乱が最近になり、侯爵の死により急速に終焉に近づいた。指導者を失った侯爵家側の指揮系統に混乱が生じ、侯爵家側の自滅というのに近い形でその戦乱は終わりを告げようとしていた。


 月の光が淡い影をつくる森の中。小川の側の木の根元で一人の少年が眠っていた。どうやら旅人のようで、肩に羽織った外套は砂嵐を防ぐためのものである。砂漠は、ここから西と東の方向にそれぞれ広がっている。どちらも人間が歩いて数十日を費やす距離である。どちらからきたにしても、かなりつらい旅を強いられてきたに違いなかった。
 長年続いていた戦乱が、ようやく一段落したとは言え、少年がたった独りで旅をするには、まだまだ危険なご時勢だった。
 焦げ茶色の髪が、木々の間をすり抜けた風にふわりと揺れた。少年が微かに身じろぎする。前髪の間からのぞいた形の良い眉が険しい。
 呼吸が乱れている。
「う……、うう……」
 唇から苦しげな声が漏れる。
 少年は夢を見ていた。
 昔のことだ。


「嫌だぁ、兄さん!!」
 薄暗い部屋の中で、一人の少年がぐったりとしている青年にすがりついている。
「兄さん、兄さんっ」
 青年の服は血でぐっしょりと濡れている。血の気を失った唇から漏れる息が細く浅い。
 少年はなおも狂ったように青年を揺り起こしている。
「―兄さん。お願い目を開けて、兄さん!」
「……う……っ」
「兄さんっ」
 うっすらと開かれた兄の瞳に自分の姿を映して、半ば叫ぶように問いかける。
「一体何があったの。誰がこんなことを!」
「……よか……った。まだ……、喋……れ……る……」
「兄さん黙って。手当しないと」
 そう言って立ち上がろうとするのを、青い顔をした兄が止めた。
「……いい。そ……の、必要は……ない。これは、致命傷だ……っ」
「な! そんなことわかんないじゃないかっ。何でそんなこと言うのさっ!」
「わかるさ……。自……分の、身体だ……。もう、助からない」
「そんな!」
 青年は、言葉をなくして茫然とする弟をいとおしそうに見つめてそっと微笑した。
「これも運命なのさ。俺達の種族は、短命だからな。……父さんも母さんもそれで死んだ。次は俺の番だ」
 青年はそこで一度言葉を切り、弟の頬を伝う涙を拭ってやった。
「――お前はここにいちゃいけない。ここにいれば、俺の運命にお前まで巻き込んでしまう。そんなことはできない。お前はまだ、生きなければならないのだから」
 兄の真摯な瞳に見つめられて、少年は唇を噛んで顔を伏せた。
「カイル、カナンへ行くんだ」
 兄の言葉に少年は軽く息を飲む。
「カ、ナン……」
 カナン。その昔、この国の基盤を造ったと言われる王が住んでいた都。今となっては、もう伝説に近い。その都がどこにあるのか、今も存在するのか、誰も知る者はいないだろう。
「そうだ、カナンだ。……そこである人がお前を待っている……」
「僕を?」
「……そいつが……すべ……てを、知っている……。俺達……のことも、……俺……達、一族の……こと……も……っ」
「そいつが、兄さんをこんな目に会わせたんだね」
 兄は、怒りに震える幼い弟に手を伸ばして、そっとその頬に触れた。
「カ……イル……」
 呟くように囁いて優しく微笑み、ゆっくりと瞳を閉じる。
 少年の頬に触れていた手が滑るように床に落ちた。
「兄さん?」
 冷たい沈黙が辺りを包む。
「兄さん、兄さんっ!」
 少年の呼びかけも虚しく、一度閉じられた瞼が再び開かれることはなかった。
「にいさぁぁぁんっっ」


 目を開けると、そこは森の中だった。
「夢……」
 小さく呟き、小刻みに震える肩を抱いて目を閉じた。
 兄さん――。
 消えることのない生々しい記憶。
 おびただしい血を流して息を引き取った兄。穏やかな笑顔は苦痛で歪み、強靱な四肢は冷たい床に投げ出されたまま、ぴくりとも動かない。

 カイルは年の離れた兄、シヴァスを心から慕っていた。幼い頃に両親を亡くしたカイルにとって、ただ一人の肉親だったシヴァスは、良き兄であり、父であり、また母でもあった。
 その兄が殺されたのは、シヴァスが二十一歳、カイルが十二歳のときのことだった。

 何故だ、兄さん……。
 癒しても癒し切れない心の傷は少年の心を乱した。
 カイルはふらりと立ち上がると、それまで座っていた木の根元を離れ、側を流れる小川に歩み寄った。そうして、小川に自分の顔を映して食い入るように見つめた。
 水面に映る二つの紅い瞳。
 その瞳をキッと睨付ける。
「すべてこの瞳のせいだ。こいつのために兄さんが……!」
 激しい憤りを押さえ切れず、水面に映る自分の顔に拳を叩き付けた。その時、背後に鋭い殺気を感じ、振り向き様、傍らに置いた剣を抜いて払った。
 奇妙な呻き声に続き、剣らしきものが地面に突き刺さる音がした。前方の闇へと目を凝らすと、数人の男達が驚きに満ちた目でこちらを凝視している。
「何者だ、貴様等! 何の用だ!」
 少年の問いには答えず、一人の男が剣を取り落として後退った。
「こ、紅眼!? お……、お前っ……!」
 他の者もその一言ではっとしたように顔を見合わせると、我先にと闇の中へ逃げ込んでいった。
「……何なんだ、全く。いい迷惑だよな。俺は悪いことなんてしていないのにさ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、剣を鞘に収めて再び木の根元へ座り込んだ。
 先程のようなことは、もう何十回と言わず何百回と経験した。つまり、少年は家を出てから今までの五年間、賞金稼ぎまがいのことをして旅を続けてきたのだ。
 行く先々でその首に賞金のかかったごろつき共をのしてきた。そうするしか生きる術を知らなかったのだ。

 旅に出るにあたって、今まで住んでいた家と調度を売り払ったが、それでも充分と言えるほどの金にはならなかった。せいぜい半年か、一年旅するほどの金額にしかならなかったのだ。あと、残っているものと言えば、兄の形見の一本の剣と、その剣の腕だけだった。 その結果、旅をしながら手っ取り早く金を稼ぐ方法として、賞金稼ぎという、少年にとっては不本意としか言い様のないことをするはめになったのだ。
 それにしても、幼い少年が街のゴロつき相手に、よくも五年の間生き延びられたものだ。 これは、奇跡と言っても過言ではないだろう。それというのもすべて兄に仕込まれた剣の腕のおかげだ。
 少年は、街と言ってしまうには少々抵抗を感じるようなそんな小さな町、キルコフのはずれに兄と二人で住んでいた。そして、何故か少年は、物心ついたころから剣術を教えられた。
 そのことが効を奏してこうして旅を続けられるわけなのだが。

 話は少し戻る――。少年が、何度も命を狙われているのはこの賞金稼ぎという行為のためでもある。善良な人々にとって悪者を退治してくれる英雄であっても、退治される側、つまり、後ろ暗い奴等にとっては迷惑この上ない存在であった。何故なら、少年の手にかかって無事に逃げおおせた奴など、一人もいないのだから。

 少年は再び目を閉じた。今度は眠るわけではない。まだ、先程の夢が瞼の裏にちらついて消えてくれない。
「兄さん――」
 堪えるようにきつく唇を噛み締める。
 少年は兄の深い緑の瞳を思い出す。
 優しい思い出の中で兄は笑っている。彼とそっくりな瞳を持つ少年にけぶるような微笑みを投げかける。それに応えるように緑色の瞳を細めて笑い返す幼い自分。
 明るい日の光の下でそれは永遠に繰り返されると信じて疑わなかった。
 カイルの本来の瞳の色は深い緑。しかし、彼ら一族は夜になるとその瞳の色が変わる。 昼のときとは一転して真紅の輝きを放つ、美しく、鋭い瞳。
 彼ら特有のそれは何を意味するのか、カイルは知らない。そのことを知る者は誰もいないだろう。この世に残った唯一の一族の者がカイルだからだ。もし、いるとすれば、カナンで自分を待っているとかいう、シヴァスを殺した人物。
 すべての鍵はそいつが握っている。
 カイルの瞳が鋭く光る。
「すべての疑問が解決した暁には、――そいつを殺す」
 自分の決心を確かめるように声に出して呟く。
 迷いは、ない。
 刹那、カイルはふと瞳を和ませた。
「……しかし、迂闊だったな。こんなときに限って薬を飲むのを忘れるなんて」
 自嘲的な笑みを浮かべて目を伏せた。
 カイルは、普段瞳の色の変化を防ぐための薬を飲んでいる。もちろん夜だけである。その薬は一族に伝わる、言わば秘薬である。彼ら一族は、他の種族と共存するためにその薬を用いた。そして、その作り方は代々親から子へ、子から孫へと途切れることなく伝えられてきた。もっとも、カイルの場合は兄から教えられたのだが。その時、瞳が他の人々と違うことを改めて認識させられた。この瞳は決して他人に見せるなと。
「――さて、そろそろ行くかな」
 独語して勢いよく立ち上がる。外套のフードをかぶり直し、脇に置いた荷物を肩にかけ、ゆっくりと東に向かって歩き始める。
 木々の向こうが昇り始めた太陽の光でうっすらと明るい。闇が森の奥へと鳴りを潜め、大地に活気が甦る。
 カイルが次の都市トーレに着くまで後二、三日を要することになる。

 
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