繭   COCOON



図書室の片隅。いつもの時間。いつもの場所。
俺は作業を始める。

広げられたノートにぎっちりと詰め込まれた文字。一瞥で判読するのは無理だろう。
俺、高遠朔弥の日課。
小説を書くこと。
これは俺の繭紡ぎ。
あらゆる感情から,俺自身を守る防護壁。
未完成なままの,俺の繭。

いつから書き始めたのか。
覚えてはいない。気づいた時にはノートの隅に文字を綴っていた。



『あんたなんかうまれなければよかったのよ・・・・・!!』

俺は不義の子だったらしい。
ノイローゼ気味の母親の甲高い声がいまだに耳の奥に残っている。
俺の発する一言にびくびく怯え、いらいらと怒り出す。
俺は空気のように,自分の存在を消すことを覚えた。

『朔弥』

5つ上の兄だけが、俺を一個の人間として扱ってくれた。
優しく聡明な望兄さん。両親の自慢の息子。
けれど、俺は不思議と兄を羨んだことは無かった。それどころか、可哀想だと哀れんでさえいたのだ。
親の言いなりになり,県下トップの高校に入学し,有名大学にも合格した兄。
兄の望みは本当は何だったのか。

『大学をやめて来た』

そう、兄が告げた時、俺だけが納得した。
ああ、この人もついに疲れたか、と。
敷かれたレールの上を文句一つ言わずに走りつづけてきた兄。そこから降りたからといって馬鹿にする気はない。
寧ろ、よく今まで我慢が出来たものだと感心する。
兄は、最初から逸脱した俺の分まで代わりに、俺と大して変わらないその両肩に両親の期待を一身に背負って走ってきたのだろう。

『アメリカの飛行学校へ行くよ。小さい頃からパイロットになりたかったんだ』

こっそりと俺に告げた兄は、子供のように夢を語って笑った。



兄の繭はなんだったのだろうか?
兄の安心して眠れる場所は?
兄はそれを見つけたから、走ることをやめたのだろか。

俺は繭を紡ぎつづけることで、崩壊する人格の破片をかき集め、組み立てている。
俺という人間を作る作業。

自分の部屋で机に向う俺に兄が問い掛ける。

『朔弥。また書いているんだね』

「ああ」
そうだよ、兄さん。食事をするのと同じことだよ。生きていくために必要なことなのさ。
声を出さずに続ける言葉はきっと兄には届かない。

『いつ読ませてくれるんだい?』

「それは、無理だよ。――ああ。俺が死んだらいくらでも」
そっと告げる本音。

『朔弥!?』

驚く兄の顔の奥に広がる悲しみを見て、俺は笑顔を作る。

「冗談だよ」
心優しい望む兄さん。どうか、せっかくここまで作り上げた繭を切り裂かないでくれないか。
繭から出てきたモノが兄さんを喰い殺さないなんて保障はないのだから。

ほっと安堵の息を吐き、兄はそっと俺の目を覗き込んだ。

『お前はいつもそうだね』

俺はそんな兄に黙って微笑を返した。
違うといって兄を悲しませたところで何の益も無い。
けれど、本当は違う。
いつもそうなんじゃなく、いつもそうしているんだよ。
俺が俺である為に。
兄さん。あなたは知っているだろうか。
毎夜毎夜、闇を吐き出さずにはいれない苦しみが。
魂を焼く渇望。
自分を生かし続けるために、自分を殺し続けなければならなかった。

吐き出す度に黒く染まっていく糸は全てを絡め取り、内へと閉じ込める。

繭の中でどろりとした闇に身体を預け、朱色の夢を見る。
胎児のように身体を丸めるのは、安らぎのためじゃない。全身を苛む苦痛に耐える為。

報われぬ想いは心を蝕んでいくんだよ。
誰にも気づかせず、本人も知らないままに。
そして、――死に至る。

突き上げる衝動。吐き出したい。吐き出せたらいい。昏く、厚く、積もり積もった闇が溢れ出しそうだ。
叫びたい。叫べたらいい。
意味のある言葉なんてどうでもいい。
呻きでいい。
声が出したい。声が出せない。
ただ、深く深く闇の底へと沈殿する声。

もう限界だ。臨界点が見える。
赤く、朱く、紅く。鋭く尖った切っ先が繭に穴を開ける。
流れ出す感情はもう俺の手にもおえない。周囲の人間を傷つけ、殺し尽くす。
誰もいなくなるまで。



誰か。
崩壊していく。だめだ。壊れてはだめだ。
ずるりと剥がれ落ちる仮面の奥に、残忍な笑みを貼り付けた俺がいる。
早く、速く、繭を。
新しい繭を紡がなければ。俺が崩壊する。
速く、疾く、代わりの繭を。
時間が無い。身体中が軋む。悲鳴が聞こえる。吐きそうだ。
誰か。
祈りの言葉なんて知らない。頼ることなんてわからない。
苦しい、苦しい、苦しい・・・・・!!!!
何も考えず、ただ、今は眠りたい。

永遠の眠りによる、魂の救済を。

破れた繭の中には一個の死骸だけが転がっている。






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