DAN
― 幸福なる不幸―
あいつとルームメイトになったのが、そもそもの不幸の始まりだった。
そう彼は断言する。
彼、ダン・フレドリクスは、月にある、連邦軍第二十二士官学校の士官候補生である。漆黒の髪に、若草色の瞳を持つ、美青年と言うには少々ふてぶてしさの目立つ、すらりとした長身の青年だった。彼は、もうすぐ十九歳の誕生日を迎える。
あいつのおかげで俺までとばっちりを受ける。
彼の場合、そのとばっちりを結構楽しんでいるのだから世話はない。
その彼の矜持を越える災厄が、彼の身に振りかかろうとしていた。それは、災難と言うべきものなのだろうか。誰にもわからない。
事の始めは、食堂で起こった、彼以外の多数の人から見れば些細な、そう些細な出来事だった。
その日は、至極機嫌が悪かった。朝から頭がガンガンして体がだるかったからだ。
「おーい、水くれーっ!」
隣では諸悪の根源、ルームメイトのレックス・スコットが馬鹿でかい声で叫んでいる。
金髪碧眼、美形というわけではないが、それなりに女にもてる満面の笑顔。自分より三センチ背が高いのも気に入らない。
「喧しいっ、頭に響く」と、心の中で罵りながら、黙々と食事を続行する。
「いいから投げてくれ。え? 大丈夫大丈夫。まかせろって!」
ちょっと待て、あれを投げるのか。落としたらどうする気だ。
懸念は、見事的中した。最悪のかたちで。
バシャッ
「……」
「…わ、悪い。手が滑った」
氷を浮かべたポットの水が、端整な顔を濡らした。
「ダ、ダン…?」
無言で髪をかきあげる。
「よ、水も滴るいい男っ!!」
この場合、この一言はよりいっそうダンを怒らせただけだった。
「う、ぁ……っ!」
短い叫び声を挙げて、レックスは床に転がった。言うまでもなく、ダンが蹴落としたのだ。
ドカッバキッドスッ…
と、しか表現できないような音がしばらく続いた。その間誰も助けに入らなかったのは、単にダンが怖かっただけで、レックスに対してざまーみろという気持ちを抱いていたわけではない。一部は。
「……ユージン」
レックスの首根っこを掴んで引きずりながら、顔見知りの後輩に声をかけた。
「な、何ですか? 先輩」
「俺達の分のトレイ片付けておいてくれ」
「いいですけど。どこへ行くんです?」
言われるままに、二人分のトレイを片付けながら問う。
少年を振り返り、唇を笑みの形に歪めた。
「粗大ゴミを片付けてくる」
いつも通り、いや、いつもにもまして凍りつくような笑みを浮かべたダンは、レックスを引きずったまま食堂を出ていった。その姿を見送って、ユージン少年が首をかしげる。
「ダン先輩、何かいつもと違う……」
少年の呟きにダンと同級らしい青年が頷く。
「うんうん。いつもにもまして怖かった」
「どうしたんだあいつ?」
誰かが誰かに尋ねた。
「何かあったんじゃないのか?」
「お前、知らない?」
「知るわけないだろ」
「鬼気迫るもんがあったよなー」
当人がいないものだから言いたい放題、けれど、何故か交わされる声は囁きに近い、いろんな憶測が飛び回る。
食堂には、ダンと同級らしい青年達の他に、ユージンも知っている先輩達や友人がいたが、みんな一様にダンの機嫌の悪さの原因について議論していた。
そんな中、一応の結論が出たようだ。
「……とりあえず、今日一日さわらぬ神に祟りなし、というわけだな」
「異議なし」
一同が深く頷いた。
賢明な結論が導き出された頃、ダンは、医局に粗大ゴミを投げ入れたところだった。
「センセー。急患です」
それだけ言うと足早に立ち去っていく。
「また派手にやられたな。で、原因は?」
奥から出てきた軍医は、既に顔なじみになっている生徒にそう声をかけた。
「ダンの頭に食堂のポット落とした」
「…それはお前が悪い」
「だからって、普通、ここまでせんでしょう! ふ・つ・うっ! そんなことくらいで、完膚なきまでに叩きのめすのはあいつくらいです!」
力説するレックスを座らせて、エリク軍医はトレードマークの眼鏡をずりあげた。
「どうせ、お前のことだ、余計な一言で相棒を怒らせたんだろう?」
「相棒じゃないです。少なくとも、あいつは俺を人間扱いしてませんって」
「…全く世話のかかる。教官に言いつけるぞ」
「そ、そんな御無体なぁ」
「…もう知っている」
「うわあぁぁっ! 何でいるんだこんなとこに!」
ぼかっとレックスの頭を小突いたのは、突如背後に現れた、この問題児達の担当者、ルーフ教官である。
「食堂での騒ぎは、既に、学校全体に広まっている。馬鹿者」
「な、何で……?」
「私に訊くな」
えー、何で? をくり返すレックスを黙殺して、話を進める。
「とにかく、だ。お前は手当てがすみ次第、速やかに授業に戻ること。次は、シュミレーション室での戦術テストだろう」
「そんな、ダンと一緒なんて。殺される」
「自業自得だ」
「横暴! 冷血! 非情! 今日はあいつと対戦なんです。代わりいないんですぅ。教官っ、お願い休ませて!」
「それはかまわんが。追試は、私と対戦だ。それに勝たんと、単位はやらんぞ。……それでも休むか?」
「だーっ」
レックスは、取りつく島のない教官の言葉に頭を抱えた。殺されたら化けてでてやる、と唸りながら軍医の手当てを受ける。
「授業には出ろよ」
と教官は逃げないように念を押した。
ダンは、よりいっそう激しくなった頭痛を堪えて、通路をシュミレーション室へと歩いていた。
今日は、対戦の戦術テストがあるのだ。しかもレックスと。
あいつは来るだろうか? と考えて微苦笑を浮かべた。あんなことくらいで懲りるような奴ではない。それは、自分が一番よく知っている。
「ダン先輩、どうかしたんですか?」
突然かけられた声に振り返ると、ユージンが心配そうにこちらを見ていた。
「真っ青ですよ」
「ああ、何ともない…」
そんな酷い顔をしていたのか、と我ながら呆れる。自分は、鉄壁のポーカーフェイスを誇っていたはずなのに、それさえも維持できなくなったらしい。
「でも…」
「大丈夫」
心配するな、と笑おうとして失敗した。あれ? と思う間もなく視界が暗くなる。
「ダン先輩!」
悲鳴のような少年の声が聞こえたが、それに答えることは不可能だった。
「ちょっ、ダン先輩! 全然、大丈夫じゃないじゃないですか! ダン先輩、起きてください!」
ダンは、壁に体を預けて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返すだけで、目を覚ます気配はない。
「ダン先輩!」
「どうした。それはダン・フレドリクスか?」
向こうから歩いてきたルーフ教官が、目敏く二人を見つけた。からかってやろうと思って近づいたのだが、どうやらそういう雰囲気ではなさそうだ。
「教官! ダン先輩が、ダン先輩が……!」
気が動転して、うまく言葉をつなげないでいる少年に、軽く頷いて見せ、よいせとダンを抱えあげる。
「…すごい熱だ。病人のくせに暴れるからだ。全く、どいつもこいつも世話のやける」
ぶつぶつとこぼしながらも、手早く側にあった内線に手を伸ばし、医局に連絡する。
「エリク、またもや急患だ」
「……全く、何だって俺が何かやろうとするときに限って、怪我だの病気だの……」
誰かの愚痴る声で目が覚めた。周囲に目を走らせ、その声の主を捜す。少し離れたデスクに向かって、コンピューターをいじる白衣を認めると、ここがどこだか、何故自分がここにいるのかを、瞬時に理解した。
「軍医」
「お、起きたか」
軍医は、数種類の薬をケースから出し、ダンに差し出した。
「何やら不穏な発言が聞こえましたが?」
「何、本音を言ってみただけさ」
「本音?」
聞き返して薬を飲む、が、あまりの苦さに思わず顔をしかめた。それを見て軍医は、笑いながらコップに水を注いで渡してくれた。
「単なる風邪だ。水かぶって暴れりゃ、容体は悪化するもんだ。朝から調子が悪かったそうじゃないか」
「朝からって、誰が言ったんです?」
怪訝そうに首をかしげて、もっともな質問をする。自分は、誰にも言ってなかったはずだが。
「お前のかわいい後輩だよ。何か気分悪そうだったって」
少年について、思い当たる節を予備知識の中に見出した。
ユージンは、類い稀なる勘の持ち主で、ちょっとしたことなら、九十パーセントの確立で当てるのだ。
「で、何故、ここに来なかった? まさかその歳で注射が怖いとか言うなよ」
と、わざわざ無針注射器を取り出して問う。
「…単に面倒くさかっただけです。大したことないと思ったし」
「あのな、倒れるまで放っておいて、大したことないはないだろう。もし、ユージンが通りかからなかったら、どうするつもりだった? あのまま授業に出ても、レックスがいるだけだぞ」
軍医の言葉を聞いていると、何だか自分がとても運がよかったのではないかと思えてくる。
「……レックスは、頼りになるんですよ、あれでも」
一応反論はしてみたが、あまり説得力がない。
熱のせいで、ダンらしからぬことを口走っているが、本人はそのことに気づいていない。
軍医は、思いがけない言葉を聞いて、軽く目を見張ったが、すぐ事務的な顔に戻った。
「ま、眠ることだな。どうする。ここにいるか? それとも自分の部屋に戻るか?」
逡巡して答えた。
「ここにいても、いいですか?」
軍医は、頷いて、そっと掌をダンの額にあてる。
ひやりとした軍医の手は、とても気持ちがよかった。
「熱はまだ下がらんようだな」
「…すみません。御迷惑をおかけして」
「殊勝じゃないか。いつもこうなら、ルーフも苦労せんのになあ」
しみじみと溜息をつく軍医を見て、唇を笑みの形に歪める。
「とにかく寝ろ。……ああ、それから。レックスの奴、かわいそうにユージンを引っ張っていったぞ。あの調子だと、お前の代わりに対戦させる気だな」
やれやれ。どうやら、恩人を犠牲にしてしまったらしいな。
今度、ユージンに何かおごってやろう、というプランを頭の隅に記憶して、目を閉じた。
軍医は、もう一度額に手を当ててからデスクに戻っていく。
椅子の軋む音。カタカタという、コンピューターを叩く音。それらを聞いていると、何だか落ち着く。何故だろうと思い、記憶を辿る。
あいつか……。
それは当然だ。自分が一番よく聞いている音だからだ。自分はあのコンピューター馬鹿と、三年間も一緒に生活してきたのだ。既に耳に馴染んでいる、コンピューターの音。あいつの音。
思考が正常だったのはそこまでだった。それから後は、熱のせいで何を考えていたのか、自分でもよくわからない。
そして、数分後。ダンは、襲いかかる睡魔にあっさり降参して意識を手放した。
目を開けると、心配そうな少年の瞳にぶつかった。
ユージンである。
と、いうことは授業は終わったんだな、と思って相棒の姿を捜した。
「ダン先輩、大丈夫ですか?」
「ああ。心配かけたな。ところで、馬鹿はどこへ行ったんだ?」
「さあ? どこかへ行くとか何とか言って、教室から飛び出していきましたから……。それより、まだ、熱下がんないんですか?」
ダンの額に手をやって訊く。そっと手を伸ばして少年の髪に触れると、微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
唐突に礼を言われて戸惑っている少年に、笑いを含んだ口調で言う。
「俺は大丈夫だ。お前はアレク先輩に遊んでもらってこいよ」
「僕は子供じゃありませんっ」
二つしか違わないくせに、と憤慨して頬を膨らませる。
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