地 球 の 欠 片

  



 ACT‐1

 建物の最上階。その部屋は、青い月明かりに満たされていた。部屋にあるのは、実験室のような機材と、一つの大きな円柱の水槽。周りに整然と並べられた装置や、覆い隠すように絡みついたコードが、まるで、水槽を護っているかのように見えた。いや、その中身を。
 よく見ると、水槽の下の表面にプレートが埋め込まれていた。

 MATERIAL・NUMBER 00 
 TYPE:HUMAN  
 CORDNAME:KOU

 液体のゆらめきの奥にいるのは、十六才前後に見える少年。銀色の頭髪が、少年の身体に幾重にも巻きついたチューブに絡みついている。その両眼は閉じられていて、瞳の色を知ることはできない。
 静かに降りそそぐ月光と、単調な機械音に支配された空間にセキュリティーシステムの作動する微かな音がした。
 どうやら、誰かがこの部屋に入ってこようとしているらしい。
 扉は難なく開き、一人の人物を招き入れた。
 薄茶の髪を後ろで束ねた白衣姿の女性。手にしたファイルと、胸につけたネームプレート。そして、この部屋に入るただ一つの方法、つまり、あらかじめドアロックに登録された網膜の持ち主であることから、この研究所の研究員であることが容易にわかる。しかも、この最上階の部屋に入室が可能であることから、彼女自身、このプロジェクトに参加していることは間違いない。

 極秘プロジェクト、コードネーム・コウ。
 月で発見された遺跡から正体不明の細胞が見つかった。細胞はどのような処理を受けたのか、完全に生きている状態だった。発掘に携わった者がこの研究所に持ち込み、所長自らが実験を行い、人間の受精卵に人工的に受精することに成功した。
 それが、現在水槽の中で眠るカレだ。
 カレの潜在能力は未知数。だが、常人でないことは一目瞭然であった。受精からは、まだ二ヵ月しか経っていないのだ。なのに、カレの身体はどんどん成長し、今の姿になった。驚くべき早さで今の身体になったカレは、成長期を過ぎたかのようにぴたりとその成長を止めた。 理由はわかっていない。けれど、おそらく……。
「……月、かしらね」
 ぽつりと呟きを洩らしたのは白衣の女性。
 今夜は満月。これから、月は欠けていく。
 女性は、記入したデータを再度確認すると、ファイルを抱え直した。部屋を出ていく前に、一度だけ水槽を振り返る。
 液体の中で銀色の髪の毛が揺れる。月光を受けて輝く水槽の中の少年が、とても、寂しそうに思えた。


 ACT‐2

 カレが水槽の内側で身じろぎすると、水槽を満たしていた液体が音もなく抜けた。
 ゆっくりと瞳をあける。
 月光を受けて、その不思議な色合いの瞳が、淡い金色になる。
 カレの手が伸びて、ある部分に触れると、入口が開き、カレを外へと送り出した。
 水槽を満たしていた液体の成分は、いったいどういうものなのだろう。たった今出てきたばかりの身体には、水滴一つ付着していない。
 カレは、手近にあった衣服に手を伸ばすと、教えられたように身に付けた。
 窓辺に立ち、天頂に差しかかった月を見上げた。そして、地上を。
 カレの顔は、無表情に近く、その真意を読み取ることは至難であった。

「あら、起きてたの?」
 扉が白い像を生んだ。
 白衣を着た女性、セスティナである。
 窓辺に立つカレを見つけ、にこやかに話しかけた。
「気分はどう? 今夜は少し冷えるわね」
 無言のまま、こちらを見るカレに上着を着せてやりながら、彼女は、カレが月を見ていることに気づいた。
「コウ?」
 研究所でただ一人、彼女だけがその名を呼ぶ。
 呼び掛けに応えるようにこちらを見下ろす、月長石(ムーンストーン)色の瞳。まるで、本物の月のように静かな輝きを放っている。
「……かえりたい、の?」
「かえる?」
 言葉の意味を理解できずにいるらしく、不思議そうに首を傾げた。
「どう説明したらいいのかしら。……そうね。本来そこに在るべきじゃないものが、在るべきところに戻る、ということかしら。わかる?」
 こくりと頷くカレを見て、再び尋ねた。
「コウ、あなたはかえりたいの?」
「僕が、どこへ?」
「月よ」
 カレはそれには答えなかった。
 ただ、微かに微笑んだようだった。そして、真実を探り取ろうとする者の瞳で、傾きを増した月を見遣った。

 ACT‐3

 カレの身体は、少年から青年へと変化した。既に、水槽から出て、研究室の一室をもらっていた。外出は許されてはいなかったが、与えられた部屋で、研究所のマザーコンピューターのディスクライブラリーを見るのがカレのお気に入りであった。
 その夜も、頭に装着したバイザー型の端末でマザーコンピューターにアクセスし、窓辺に座って、熱心に見入っていた。
『……月は地球の一部である……』
 端末から洩れ聞こえる言葉は、カレの他、月だけが聞いていた。

「おじゃましてもいいかしら?」
 控えめなノックに続いて、セスティナが顔を覗かせた。どうやら今夜は彼女が当直であるらしい。当直の日はいつもカレの部屋に顔を出す。
「こんばんわ。どうぞ、セスティナ」
 ディスクライブラリーのおかげで、言語能力が格段に上がった。ただし、少々喜怒哀楽の感情に欠ける。だが、これはいたしかたがないと言えるだろう。カレと対等に接する生身の人間は彼女だけであったのだから。
「何を見ていたの?」
「宇宙」
 バイザーを外してカレが言った。
「……そう。また、宇宙を見ていたの」
 寂しそうに微笑む彼女を見て、カレは返答に困った。
 何か、彼女を悲しませることを言ってしまったのだろうか。ここでは、彼女だけが親切にしてくれる。彼女を悲しませるようなことはしたくない。
「セスティナ」
 そっと名を呼んで、肩を抱く。
「……コウ?」
 突然の行為に茫然としている、彼女の額に軽く口づける。
「どこで覚えたの?」
「ディスクソフトにあった。悲しい人を慰める方法」
「……いったい何のソフトを見たの?」
 戸惑うような声音にカレは狼狽えた。
「あ、間違ってた? だったらごめんなさい。これをしたら元気になると思って」
 困惑するカレを見て、苦笑を閃かせると、
「間違っていないわ。私、元気になったもの」
 と、言った。
 確かに間違いじゃない。カレの手が触れている肩から、悲しみが抜けていくようだった。
 コウはここにいる。触れ合えるほど近くにいる。
 彼女は気づいていた。もう自分はコウを実験体(マテリアル)として見てはいないことに。


 ACT‐4

 何かがカレに告げていた。
 これが最期だと。

 いつものように、部屋を訪れた彼女は、屋上へ行きたい、というカレの希望を聞き入れた。
 今夜は何かがおかしかった。今までそんなことを言い出しもしなかったカレが、突然外に出たいと言い出したのも、普段なら、聞き入れられるはずもない願いが、聞き入れられたのも。
 研究所の三十六階より上に、人はいない。限られた人間のみ、出入りが許されている上に、今夜は彼女が当直であったからだ。
 無言のまま、屋上へ出るためにエレベーターに乗り込んだ。

 初めて触れる外気がひやりと肌に心地好い。
「空気が、流れてる?」
「風よ。……今夜は少し強いわね」
「か……ぜ……」
「そう。風」
 カレの側に立ち、空を見上げる。未完成の満月が皓々と辺りを照らしている。
 それからしばらくの間、カレは黙って月を見上げていた。
「……僕は、今夜消えてしまう」
 唐突な一言に、彼女は驚いてカレを見遣った。
 真摯な瞳がこちらを見つめている。
「コウ?」
 最期の変化が始まろうとしていた。
 カレの輪郭がぼんやりと輝いた。月光に溶けるように、曖昧になる。
「いや!」
 彼女はすがるようにカレを抱きしめた。少しでも、その姿を留めておこうとするように。
「…悲しまないで。君が悲しむのは嫌だよ」
「コウ……」
 彼女の細い肩を抱き寄せて、静かに言葉を継ぐ。
「僕は、地球(ほし)に還る」
「どうして」
「在るべき場所に還るんだ、セスティナ」
「でもっ、あなたは……!」
 月の、と言いかけてやめた。カレを実験体としては見たくなかった。彼女にとって、既に、カレは何者にも代えがたい存在になっていた。
「…百億、千億もの昔。僕らはこの地球の一部だった。今は、離れ離れになっているけど、子供が母親のもとへ帰るように、僕もまた、還るんだ」
 運命を受け入れた者が見せるような、穏やかな笑みを浮かべる。
「僕の内側(なか)で、何かが告げているんだ。『かえろう』って」
 カレの言葉を風がさらっていく。
「……行かないで……」
 カレが消えてしまう前に伝えなければならない言葉があった。
 囁くような声が、想いを告げる。
「愛してる……愛してるの、コウ。あなたを」
「……セスティナ」
 カレは、そっと額に口づける。
 悲しい人を慰める方法。
 そう、カレが以前に言っていた。
「ありがとう、セスティナ」
 月長石色の瞳から涙がこぼれる。それは、月光をうけて、本物の宝石のようにきらめいた。
「これは?」
「涙よ。人が、悲しいときや、嬉しいときに流すもの」
「……これが、涙」
 もうほとんど薄れかかった腕を持ち上げて、それを拭った。
「あたたかい……」
 他人を想って流す涙は、とてもあたたかい。
 そっと身を屈め、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「…誓いをたてる行為」
 はにかんだような笑顔でカレは言った。
「コウ……」
「僕は本来の姿に戻る。……僕は消えてしまっても、永遠に君のものだよ」
 謎めいたその一言を言い終えると、カレの姿は、風にさらわれるように夜に溶けた。
 残ったのは、一欠片(ひとかけら)の石。本当の、カレ。
 彼女はそっと石を拾いあげた。
 手のひらに乗るほどの小さな石。
 カレが彼女に残してくれたものは、カレという存在のすべて。
 彼女は、小さな石をいとおしそうに手の中に包み込み、カレの消えていった月光の中にいつまでも佇んでいた。



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