破鏡





 もう、本当の自分がどれだか判らない。

 心の森で迷子になった。
 本当の俺はどこ――? 



ACT−1

 不思議な空間に立っていた。
 辺りは一面の鏡。どれもみな、触れれば壊れてしまいそうなほど、繊細で美しい。
 それらが映しているのは無数の自分。
 鏡と自分だけが存在する世界。
 動くたびに、その無数の自分が同様に動く。 
 悲しい顔をすれば、すべてが悲しい顔を見せ、笑い声をあげれば、その笑声は空間全体に響く。

 鏡の中を歩き出した。
 いつからここをさ迷っているのか。
 それさえもわからずに。
 無限に続くかと思われるような空間をあてもなく、ただ歩いていく。
 歩くたびに鏡の中の自分も歩きはじめ、不意に消えては別の鏡の中で、また歩いている。



『泣いているのは、誰?』 
 声は唐突に耳の奥で聞こえた。
 よく知っている声。懐かしい。耳に馴染んだ声。
 自分自身の声。
 今の自分には出すことのできない声音。
 無数の自分が耳をそばだてる。
『どうして泣くの?』
「泣いてなんかいない」
 鏡の中の自分が答える。
『ずっと泣いてる。僕はそれを知ってる』
「嘘だ。泣いてなんかいない。今だって笑ってる」
『泣いているよ』
「嘘だ嘘だ」
 大きくかぶりを振る。そうして鏡を見る。
『泣いているよ』
「うそ……だよ……」
 脅えた瞳に映るのは、静かに涙を流す自分。
「泣いてなんか……」
『こんなにも泣いているのに?』
 呟きと共に鏡の中の自分が消えた。
 泣いている俺を独り残して、全てが消えた。


ACT−2

 壊れてしまえばいい。
 いっそ、壊れてしまえ!


 その声がどこから聞こえてくるのか、知っていた。
 それは俺自身の声。
 偽りの中に深く埋められた本当の自分。

 俺はいつも、素直になることができないでいた。
 差し伸べられる腕を振り払うことしかできずに、残されて茫然とする。
 中途半端だな。
 馬鹿なんだよな、実際。
 誰よりも受け止めてもらいたいと願うのに、躊躇する。
 最初の一歩が踏み出せずに、いつまでも同じ場所で誰かを待ってる。
 憶病な俺はいつまでも一人きり。
 このままじゃ、淋しくて哀しくて、つらくて……死んでしまう。
 どうすればいいのかなんてわかってる。
 たった一言でよかったんだ。少しの勇気と笑顔で。
 あのときも、そのときも、そして、今このときも。

 今のままの俺じゃだめなんだろうか。
 俺は俺だから。それは変えようがない。
 作り物の俺を好いてもらってもしょうがない。
 俺の代わりなんていくらでもいる。そんなのわかっていたよ。俺じゃなくてもいい。誰でもよかったんだ。
 代用品としての価値しかない。いや。それさえもない。簡単に代わりの人間を捜せる。その程度でしかない。
 存在価値のない俺は。どうすればいい。どうしようもない……。

 壊れてしまえばいい。
 いっそ、壊れてしまえ!


 そうしたら、淋しさも悲しみも感じなくてすむ。
 それだけが救い。
 
 壊れてしまえ!
 
 誰も気に止めやしないさ。俺がいなくなればすぐに代わりの人間を捜すだろうから。
 
 壊れてしまえ!
 
 楽になれる。少なくとも泣かなくてもすむさ。……悩まなくてもすむ。
 
 壊れてしまえ……。
 
 このまま。どうか、放っておいて欲しい。 望んだわけじゃないのに。
 見せつけるために俺を呼ばないで。
 そんなに俺を壊したいのか。
 だったら、いっそのこと派手に壊してくれ。
 
 あまりにも無防備な心に言葉は容赦なく突き刺さる。


ACT−3

 俺が泣いている。

 さみしくてかなしくてつらかった。
「…怖い。怖いよ」
 この手を放したらどうしたらいいんだろうと考えて、怖かった。
「独りにしないで……」
 もう独りは嫌だと思った。
 必死になって作ってきた壁はすっかりなくなったままで、中にはあのころのまま成長しない俺がいた。
「もう、嫌だ……」
 脅え、震え、膝を抱えたままで。
「たえられない」
 前を向いているふりをしてきたけど、もうそれもできない。
 いなくなることを恐れ、嫌われることに脅えた。
 独りになることのつらさを知っているから。もう、失いたくなかった。
 手に入れて失う喪失感はそれを味わった者にしかわからない。 もうどうでもいいと思っていた。
 なし崩しに生きてきて、今、また大切なものを手に入れてしまった。
 この手を放される前に放してしまおうかと思った。
「でも、できなかった」
 わかっていたんだ。
 どれだけこの手を欲しがっていたか。ずっと気づかないふりをしてきたけど、もう無理だ。
 支えが欲しかった。
「……」
 受け止めてくれる腕が。ここでなら泣いてもいいと言ってくれる存在が欲しかった。
 精一杯の虚勢はもうとっくの昔に限界だったんだ。
『ここにいるよ』
 あたたかい声が俺を呼んでいる。
『泣かないで』
「泣いていない」
『泣いている』
「泣いてなんかいない」
『ここにいるから』
 ふわりと包み込むようなあたたかさは随分と昔になくしたものより一段と深く、心地いい。
『あなたはあなた』
 当たり前のことを当たり前に言う。
 それが嬉しい。
『       』
「……知ってるよ」
 俺は真っ直ぐ前を向いた。
「俺はここにいる」
 本当の俺を捜し出して捕まえてくれたから。 だから、今は笑える。
 笑顔に笑顔を返せるだけの強さを呼んでくれたから。
「ここにいるよ……」

 心を映す鏡は砕けた。
 傷つくことばかり恐れて無数の自分を作り出した。そのための鏡はもういらないから。 鏡の中の俺が前を向いたとき、俺は俺に戻った。
 たったひとりの、本当の「俺」に。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送