風 の 詩


 


「また、この地を訪れようとは思いもしなかった」
 呟きは風の中から。
 現れたのは、すらりとした青年。青みがかったプラチナ色の髪を緩く後ろで束ねているその姿は、端正な顔のせいもあって、とても神秘的であった。
 彼の名は、ルクレルク。風の神の第五子。
 彼の役目は、生まれた風達に導きを与えることである。 神ではない。がまた、人でもない。それが、彼のような風使いだった。
 ここは変わらない。森と湖にかこまれた美しい村……。そこに住む人々もまた……。
 木の上に立ち、懐かしそうに目を細める彼の視界の隅を、人影が駆け抜けた。
「! まさか!」
 人影は木立ちの中に消えた。
「……そんなはずはない。あれから一万回の夜が巡ったのだから」
 そう。彼がこの地の風達に導きを与えていたときから、ずいぶんと時は流れた。人が老いるには充分なだけの時が。人とは違う時の流れの中にいる彼が、まだ若々しい姿をしているとしても、おそらく、彼女は。
 黒髪の美しい、語り部の乙女。
「……美しい、ミリアス」

     ◇             ◇ 

 静かな湖の辺で二人は出会った。

「あなたは?」
 語り部の乙女はにこやかに問いかけた。
 彼女は、驚くほど澄んだ瞳をしていた。
 人でありながら、このような美しい瞳をした者に出会ったのは久しぶりだった。
「私はミリアス」
 名乗ってこちらを見る。瞳で再び問いかける。
「……ルクレルク」
「良い名ね」
 無愛想な若者に対して、乙女は特に気にするふうでもなく、微笑んだ。
「ねえ、聞いていってくださるかしら? 新しい物語を教わったの」
 若者の沈黙を肯定と受け取ったのか、乙女は語り出した。古の物語を。
 若者は困っていた。いや、正しくは戸惑っていた。
 彼女は私を人だと思っているようだが、真実を告げたほうが良いのだろうか。と。
 それに、若者は久しく人と言葉を交わしていなかったので、どう彼女に接したらいいのかわからなかったのだ。「……というお話。どうかしら。お気に召しました?」「ああ」
 実際彼女の話は素晴らしかった。きっと良い語り部になるだろう。
「本当に? うれしいわ」
 乙女は立ち上がって微笑んだ。
「また、お会いできますかしら、ルクレルク」
 若者は考える前に返事をしていた。
「喜んで。レディ・ミリアス」
「ミリアスでいいのよ」
 差し出された手を取り、軽く口づける。
「ミリアス。夜が七回巡ったら、また、この場所で」
 頷いて去って行く乙女の後ろ姿を見送った。
 彼女の姿が消えてから、突然、若者は己の過ちに気づいた。彼女と自分の住む世界の違いに。
 会ってはいけない。そう何かが告げていた。
 若者は、憂いを湛えた瞳で乙女の去って行った方を見て、一つ頭を振った。
 しばらくじっとその場に佇んでいたが、やがて風の中に消えた。

     ◇              ◇ 

 夜が七回巡っても、若者は姿を現さなかった。乙女は毎日湖を訪れて若者を待った。

 彼は空から語り部の乙女を見ていた。
 彼女はやってきては、最初に出会ったときのように湖の辺に座り、本を広げた。そして、本を読みながらも、時々顔を上げて辺りを見回す。
 若者を待っているのだ。
 そうした彼女を見るたびに、何度出ていこうと思ったことか。
 その日も乙女は、いつものように岸辺に座り、本を広げていた。日が暮れ、今日も若者が来ないことがわかると、本を閉じて立ち上がる。が、立ち上がろうとして大きくよろめいた。
「ミリアス!」
 叫び声と共に、柔らかい風が乙女を包み、湖に転落するのを止めた。
 ふわりと岸辺に横たえられた乙女を抱き起こし、心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫か」
「……ええ」
 ほっと安堵の溜息を洩らす彼の頬に手を伸ばして、
「確か七巡りのお約束でしたのに、もう夜は十六回ほど巡ってしまいましたわ。おかげで、あなたにお話する物語がずいぶんたくさんになってしまいましたの」
「すまなかった」
「……あなたが何者でも私にはどうでも良いことですわ。あなたはあなた。私にとってそれだけが真実ですの」
「ミリアス、知っていたのか」
 乙女は頷いて、若者の髪に触れた。
「語りの中には風使いのお話もあるんですのよ。この髪の色。すぐにわかりましたわ」
 乙女はそう言うと微笑して言った。
「遅れてきた分きちんと聞いてもらわなければ困りますわよ、ルクレルク」
「……ああ、ミリアス。もちろんだ」
 乙女の細い体を抱きしめながら、誓いをたてるようにそっと唇を重ね合わせた。

 二人は互いに違う時の流れに身を置きながらも、運命的に出会い、恋に落ちた。

    ◇               ◇   

 森がざわめいていた。数巡りほど前からずっとだ。
「お前のせいだ!」
 誰かが叫んだ。
「後のことも考えずに軽率な!」
「どうするのだ。このままでは被害が大きくなるぞ」
 静かな村は騒然としていた。
 夜が一巡りするごとに、風が強くなっていく。風が暴れているのだ。
「お前が誘惑したせいであの風使いの力がなくなったのだ!」
「ミリアス! いったいどう責任を取るつもりなのだ!」 村人は口々に語り部の乙女を責め立てた。
「出ていけ! お前がこの村にいる限り、風はおさまらん」
「そうだ。出ていけ!」
「出ていけ!」
 ある村人が手を振り上げた。それが乙女に届く前に何者かがそれを止めた。
「ルクレルク!」
 乙女が驚きの声を上げた。乙女に向かってそっと頷いて見せると、彼は村人に向き直った。
「どうか、ミリアスを責めないでほしい。すべて私が悪いのだから」
「じゃあ、あんたが責任を取ってくれるのですか」
 村長らしい人が村人を代表するように口を開いた。
「ああ」
 若者は首肯して言った。
「神でもなく、人でもない。それが風使い。しかし、私はミリアスを愛し、人でありたいと願うようになった。それが私の力を弱くした」
 淡々と語る彼を、その場にいる人々は静かに見守っていた。
「私は父神から帰ってくるように言われている。……私がこの村を去る」
「!」
 乙女がはじけるように顔を上げる。
「そんなに悲しい顔をしないでくれ、ミリアス。君のせいではないのだ。父神の命に背くことができないだけだ」「……では、誰がこの暴れている風達を導いてくれるのですか」
 不安気な村人達を安心させるように若者は笑顔を向けた。
「私の代わりが一巡りほどしたらやってくるはずだ。心配はいらない」
 若者は再び乙女のほうに向き直り、静かに涙を流す乙女の涙を拭った。
「私がこれから向かうところに君を連れていくことはできない。冷たい男だと恨んでくれてもいい」
 乙女は小さく首を横に振った。
「あなたは優しい方です。何か理由がおありなのでしょう」
 何も言わずとも察してくれる彼女の優しい心に、彼はますます離れがたく感じた。
 彼は、自分のピアスを片方取ると乙女に手渡した。
「こんなものしか残していけない私を許してくれ」
 抱き寄せた体が震えている。そのぬくもりを忘れないように強く抱きしめた。
「愛しています、ルクレルク……」
「私もだ」

 そうして、夜は巡り、時は流れた。

    ◇               ◇ 

「ミリアス……」
 呟きを風がさらい、空へと運んでいった。
「……美しい黒髪がよく似ているだろう」
 不意に話しかけられ、驚いて振り返った。
「そうか。あんたとは入れ違いだったから、顔を合わせるのは初めてか」
 視線の先に男がいた。髪の色でわかる、といつか彼女が言ったように、男の髪も彼と同じ色をしていた。
「あんたの後にここを受け持った、クァンだ」
 男の差し出した手を握り返して、先ほどの言葉の意味を問うた。
「ああ。さっきあんたが見て驚いていた子だよ。エマというんだ。なかなかかわいい子だろ」
「いや、後ろ姿しか見ていないが」
 村のほうへ目を向けると、先程の人影らしき女性が、子供達に囲まれて木の根元に座っている。
「あんたの子だよ、ルクレルク」
 突然の男の言葉に耳を疑った。
「ミリアスは誰とも結婚しちゃいない。……エマはあんたとミリアスの子だ」
 言葉をなくしている彼に向かって男は言った。
「よおく見てみな。エマのピアスはあんたがミリアスに渡したものだろ」
 確かにその通りだ。そのもう片方はここにある。
「それに、あの子の目はミリアスには似ていない。あんたと同じ、浅葱色だ」
「ミリアスは……、ミリアスはまだ村にいるのか」
 問いかけに対して帰ってきたのは沈黙であった。
「かまわない。教えてくれないか、クァン」
「……死んだよ。エマが十五のときかな。流行病でね」」 男はそう言い、数瞬迷ってから口を開いた。
「最期の言葉だ。『風になってあなたのもとへ行く。愛したのはあなただけだった』と」
「ミリアス」
「こう言っちゃ何だがね。ミリアスは俺が今まで見てきた中で一番幸せだったよ」
 男の言葉を聞きながら、そうであればいいと思った。「クァン、ミリアスの最期を見取ってくれて礼を言う」「いいや。俺は見取ってない。さっきの言葉なら、風がそう言っていたのさ」
「風が?」
「風は人の思いを歌うからな。ミリアスの想いを感じて風が歌ったんだろうな。俺はそれは聞いてあんたに伝えただけだ」

 風が行く。
 想いを歌いながら。
 導き手の導くままに、世界を巡り、やがて、在るべき場所へと還える――。
  
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