かがみ もりようい たん
   伽守の森妖異譚 3 

     風を起こす者





 俺は見た。
 月光に照らし出された銀の髪。
 微かに響く『彼女』の叫び。
 駆けつけた俺の前にあったのは、凍りついた『彼女』と月を背に立つ一人の銀髪の男。男は薄い笑みをはり付かせ、俺を見ると、
「遅かったな」
 一言呟き姿を消した。
 後に残されたのは為す術もない俺と、滅びという運命を突きつけられた森の悲鳴。
 許さない。
 俺の思いを代弁するかのように風が唸る。
 『彼女』を元に戻せ。笑顔を返せ。
 『彼女』のもたらす恵みを――。
 風が森を巡り、全ての生きとし生けるものに伝える。 許すな、と。『彼女』を凍らせた男を許すな。平穏な暮らしを脅かすものを許すな。

 風は深い悲しみに満ちて森を巡る――。

    ◇               ◇

 
しあん
「泗杏様」
「ああ……」
 いつものテラスで、午後のお茶を飲んでいた泗杏に、
き り
杞莉が何かを促すように呼びかけた。
 今日も、森には心地好い風が吹いている。泗杏の銀の髪と、杞莉の黒髪を揺らして通りすぎていく、風。
「……悲しい風だな」
 ぽつりと泗杏が言った。それに頷いて、杞莉が外へ視線を向ける。
 さわっと木々が揺れる。風が悲しんでいるのか、それとも、この伽守の森が悲しんでいるのか。
「どちらにしても、一度見に行かねばな……」
 一人ごちて、泗杏は闇色の瞳で森のほうを見た。

    ◇               ◇

 何だろう。
 弓を手にした青年が、何かに誘われるように背後を振り返る。ちょうど、風が木々の葉を揺らして吹き抜けていった。
 ざあああぁっ
 いつもと同じ森。歩き慣れた小道。でも、何かが違う。
 
けいや
 「渓夜様」
 音もなく背後に現れた影に呼ばれた青年は、笑顔で振り返った。
「杞莉、どうしたの。珍しいね。今日は一人かい?」
 黒衣の男はそれには答えず、しばらくの間森に入らないように、と告げた。
「何かあったの? 泗杏は?」
「いえ、何も。ただ、私は渓夜様にお伝えするように言われてきましたので」
「そう。僕はそれを村の人達にも伝えればいいんだね」
 はい、と頷いて杞莉は現れたときと同様、音もなく木立ちの中に姿を消した。
「あ、待って。泗杏は?」
 と、慌てて声をかけると、
「屋敷におられます。ご心配なく」
 既に姿は見えなかったが、杞莉が微笑しているのがわかった。渓夜は安心したように一つ息を吐いて、
「わかった。ありがとう、杞莉」
 見えぬ相手に礼を言い、弓を持ち直した。
 村に続く小道を歩き出した渓夜は、もう一度だけ森を振り返った。完全に杞莉の気配も消え、ただ風だけが木々の葉を揺らしていた。


「――と、泗杏が言っておったのじゃな」
       
おじい                  
「そうだよ。長老」
 森から戻った渓夜は、早速長老の元に赴いて泗杏からの伝言を伝えた。
「ならば従っておいたほうが無難じゃな」
 白い顎髭をひと撫でして長老は頷いた。
「わかった。わしの方から皆に話そう」
「うん。お願い」
 そう言って立ち上がった渓夜を長老が呼び止めた。
「どうかした?」
「ああ」
 長老は、振り返った渓夜を見て皺ぶかい顔に笑みを浮かべた。
 渓夜は村でも評判の素直で優しい若者である。できれば、得体の知れないよそ者とはあまり親しくなってほしくない。
「泗杏のことなんじゃが…」
「泗杏は泗杏だよ。長老」
 長老の言葉を遮って渓夜が言った。
 真っ直ぐにこちらを見る渓夜の瞳が揺らぐことはない。それはまた、泗杏を信じる気持ちも同じ。
 長老は片手をあげて行っていいと合図した。渓夜が出ていくのを見送って立ち上がると、深々と溜息をついた。
「やれやれ。あの強情さは父親に似たんじゃな」

    ◇               ◇

 いつも通り静かな森の中を、泗杏はゆっくりと歩いていた。散策している風にも見える足取りは、迷うこともなく一定の方向に向かっている。
 泗杏が向かっているのは森の中心。一際大きな木が枝を広げるそこはこの森の生命線、伽守の森の魂のある場所だ。
 滅多に人が足を踏み入れないそこにいったい何があるというのか。
 泗杏が足を止めた。
 そこにあったのは凍りついたように時を止めた彫像。いや、眠るように目を閉じているのは精霊。おそらく、この伽守の森の精霊。
 このままではいけない。主がいなくなった森は滅びを待つだけだ。
 泗杏は黙ってその精霊に近づくと、手をかざした。
「誰がこんなことを…」
 呟きを一つ吐き出すと眠りを覚ますべく呪文を唱えた。
『やめろ!』
 声とともに突風が吹き抜け泗杏を吹き飛ばした。
 何とか木への激突を回避し顔を上げた泗杏の目の前に現れたのは、一人の青年。薄い水色の髪に透明なマント。
「お前は……」
『彼女に触れるな!』
 青年が言葉を発する度に風が鳴る。
 風の精霊……。
 泗杏はゆっくりと立ち上がり、精霊と対峙した。青年の姿をした風の精霊は、眠り続ける森の精霊を守るように泗杏を睨みつけた。
『彼女をどうする気だ』
「どうするも何も……」
 泗杏の言葉を遮って風が走った。
「つっ!」
 泗杏が顔をしかめる。切り裂かれた衣服から血が滲む。
「……彼女は、この森の精霊だな」
『そうだ。知っていて彼女を眠らせたのだろう』
「誰が……」
 そう聞きはしたが、返る答えの予測はついた。
『惚けても無駄だ。俺は見た。お前が彼女を!』
 やはり……。
 何者かが泗杏の姿をかたり、森の精霊を眠らせたのだ。
「俺は知らん」
『何を今更』
「落ち着け。とりあえず、話を……」
 風の唸りが言葉をかき消す。
「泗杏様!」
 強い衝撃の中でその声を聞いた。
 地面に転がった泗杏に覆い被さる黒い影。
「杞莉」
 いつから来ていたのか、留守を預けてきたはずの杞莉はいつもの微笑みを浮かべてそこにいた。
「ご無事で」
 微笑んだ杞莉の顔が苦痛に歪み、泗杏の腕の中にくずおれた。
「杞莉!」
 倒れ込んだ杞莉を支え、視線を杞莉の背中に向けた。 思わず息を飲む。
 泗杏を庇って受けた精霊の攻撃は、杞莉の衣服を切り裂き、その背中さえも切り裂いていた。
 血は流れない。霊界物質で作られた杞莉の身体には、一滴の血も流れていないからだ。
それでも、杞莉の受けた衝撃波は血を流すかわりに杞莉の命を削った。
「杞莉……?」
 囁くような呼びかけ。しかし、それに返る答えはない。
「杞莉」
 もう一度呼びかける。
 返る沈黙に、泗杏の中で何かが音を立てて崩れた。
 泗杏はきりっと唇をかみ締め、杞莉を抱えて立ち上がった。
 身構える風の精霊を一顧だにせず歩き出す。
『逃げるのか』
「……逃げはしない。お前の相手は後でゆっくりしてやる」
 そう言った泗杏の背後に立ちのぼる気は怒りに揺らめいていた。


 泗杏は、森を抜け渓夜の村へと続く小道に出ると杞莉の身体を横たえた。
 まだ意識は戻らない。
 泗杏は低く呪文を唱え応急処置にかかった。
ふわっと杞莉の体をあたたかな波動が包む。それがおさまると、ゆっくりとではあったが杞莉が瞳を開けた。
「……泗杏……さ…ま……」
「気がついたか、杞莉」
 ほっとしたような泗杏の表情に、杞莉も微かな笑みを浮かべる。
「申しわけ……ございません」
「何故、謝る。お前は俺を庇って傷を負ったんだぞ」
「泗杏様に、心配をかけてしまいました」
 すまなそうに詫びる杞莉に泗杏はかぶりを振った。
「お前のせいではない」
 そして、ゆらりと立ち上がる。
「泗杏……様?」
 訝しげに主を見上げた杞莉は、その変化に体をこわ張らせた。
 泗杏を包む気が変わる。
 悲しみと怒りに染められたそれは、やがてまがまがしいものへと変貌を遂げる。
深い悲しみと抑えがたい怒りが泗杏の心を支配し、その身体の奥に眠る強大な力を呼び起こした。
 一族の者が畏れ、泗杏自身も自ら封じてきたその力が解き放たれた。
「いけません! 泗杏様!」
 必死に身を起こし、引き止めようと伸ばした手は泗杏には届かず、虚しく空を掴んだ。
「泗杏様!」
 呼んでも振り返らない。杞莉の声はまるで聞こえていないようだった。
 森の中へ姿を消す泗杏を、今の杞莉に引き止める術はなかった。
 何とかしなければ。最終的に傷つくのが泗杏であることを知っていた杞莉はまだ完全ではない体を起こした。
「早く、お止めしなければ……」
 この姿では動くに動けないと悟った杞莉は直ぐ様にそれを変化させた。
人身から猫身へと。
 杞莉は救いを求めて走り出した。
 急がなければ。
 その気持ちが杞莉を走らせた。ほとんど動かないはずの身体に力を与えた。
 杞莉は森の小道を夢中で駆けた。

    ◇               ◇

 渓夜がそれを感じたのは、換気のために開放した窓から吹いてきた風のせいだった。
 あの風だ。
 杞莉と会話を交わしたとき吹いていた風。
 どこか悲しい風。
 何だろうと首を傾げた渓夜の視界に黒いものが映った。あれっと思う間もなくそれは渓夜目がけて飛びかかってきた。
「うわ!」
 避けた拍子に尻もちを付いた渓夜の傍らで、黒い影が大きく膨らんだ。それは小さな生き物から渓夜のよく知る人物へと変化した。
「杞莉!」
 慌てて駆け寄る渓夜に抱き起こされながら、杞莉はうっすらと目を開けた。
「渓夜…様?」
「そう。僕だよ。一体どうしたの。……怪我を!」
 杞莉の背中に目をやり渓夜は声を上げる。それに構わずに、杞莉は渓夜の腕を掴むと真摯な眼差しで助けを求めた。
 無論、自分以外の人のために。
「渓夜様……。泗杏様を、止めてください」
「泗杏がどうかしたの!」
「お願いです。泗杏様を……。泗杏様に罪を犯させないでください。……あの方の心が傷つき血を流す前に……どうか……」
 あの風の精霊に罪はないのだ。彼もまた悲しんでいる。
最愛のものを失い、逆上しているに過ぎないのだ。だからどうか、泗杏に間違いを起こさせないでほしい、と。
「わかった。泗杏はどこに?」
「森に。……行けばわかるかと……」
 そこまで言うと杞莉は意識を失った。ここまで気力だけでやってきたのだ。もう、限界だった。
      
おじい    おじい
「杞莉! 長老、長老ぃっ!」
 


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