伽守の森妖異譚           
  
水 精  

 木漏れ日のさす森の小道を一人の青年が駆けていく。
 青年の名前は渓夜(けいや)。森の側の村に住んでいる。年の頃は十代後半といったところだ。
 森を抜ける午後の風に茶色く柔らかい髪をなびかせて渓夜は走る。
 渓夜が目指しているのは前方の角を曲がると見えてくる、この伽守の森に住んでいる友人のところであった。
 友人というのは泗杏(しあん)という、術使いだ。いつからそこに住んでいるのか誰も知らない。
 ふと気がつくとそこにいたのだ。
 泗杏は何をするというわけでもなく、たまに村人に頼まれ薬師のようなことをしている他は、たいてい家にいる。家でも特に何かをしている
というようには見えない。渓夜が訪ねていっても、テラスでぼんやりと外を眺めていることが多い。
 この日も例外ではなかった。
 門を抜け、鍵のかかっていない重厚な扉を開け、広い家の中を突っ切り、テラスへ駆け込む。
 と、はたして、泗杏はいた。
 いつものようにテラスにおかれたテーブルセットの片一方の椅子に深く腰を下ろし、外を眺めている。
「慌ただしいな」
 耳障りのよい声。
 泗杏は、銀の髪を風にそよがせて軽く足を組んでいた。
 外に視線を向けたまま振り返らない。誰が来たかは振り返って確かめるまでもないというような素振りだ。
「走ってきて喉が乾いただろう。お茶でも飲むか?」
「泗杏」
 名を呼んだ声に応えるように泗杏が首を回す。
 端正な顔立ち。秀麗な顔を飾るのは深遠な闇色の瞳。
 彼を見た者は、まず、その美貌に見惚れ、次いで、両眼の昏い輝きに恐怖する。
 その瞳がじっと渓夜を見つめる。
「な、何…」
 身を堅くして身構える渓夜にくすりと笑みを洩らし、泗杏は渓夜の背後に視線を移した。
「杞莉(きり)、お茶の用意を頼む」
 気配もなく背後に佇んでいた黒髪の男が軽く頭を下げた。
「かしこまりました」
「あ、杞莉。待って」
 すべるような足取りで奥へ下がりかけた男が足を止めて振り返る。
「何でしょう?」
「これ。母さんから。ジャムだよ」
「ありがとうございます」
 礼を言って杞莉が下がると、泗杏が「おい」と不満げな様子で渓夜を呼んだ。
「そういうものは普通屋敷の主である俺に、まず渡すものではないのか」
「でも、結局杞莉に渡すんじゃないか」
「だとしてもだな…」
 反論しかけてやめた。どうも分が悪い。
「…とにかく。お茶にしよう」
 テーブルにはお茶の用意が整えられていた。二人がくだらないことを言っている間に杞莉が用意したのだ。
「僕はお茶を飲みに来たわけじゃ……っ」
「杞莉のいれたお茶だぞ」
「飲む」
 杞莉はお茶をいれるのが本当に上手い。今も、テーブルの上からいれたての紅茶が馥郁と香ってくる。その誘惑を振り払うことは到底不
可能であった。
 しばらくは二人共無言で紅茶を飲んでいた。
「で、何をそんなに急いでいたんだ」
 三杯目の紅茶に渓夜の持ってきたジャムを入れながら泗杏が訊いた。
「うん。由乃(ゆの)がこの間森に入ったまま帰ってこなかったんだ」
 カップを両手で包み込むようにしながら渓夜は話出した。
 つまりこういうことである。
 いつものように森に狩りに出かけた由乃が日が落ちても村に帰らない。迷子になるような年齢でもないし、第一、由乃は村でも指折りの狩
人だ。まして、自分の庭と言ってもいいほど知り尽くした伽守の森である。獲物を追っているか何かでいつもより遅くなっているのだろうと誰も
が思っていた。が、翌朝になっても由乃は帰ってこなかった。心配した村人の何人かが由乃を捜しに森に入った。無論渓夜もその一人であっ
た。
 日が傾きかける頃になってようやく倒れている由乃を発見した。村人は慌てて連れ帰り村の薬師に診せた。だが、どこも悪いところはない。
ただ、眠っているだけだというのである。
 どうにも手の施しようがないまま、三度日が昇り、落ちた。
 由乃はまだ眠ったままである。

「……泗杏なら何とかなるんじゃないかって。長老(おじい)が」
「それでお前が走ってきたのか」
「うん」
 こくりと頷いてお茶を注ぎ足した。
「由乃は大丈夫だよね?」
「さあ、な。診てみないと何とも言えんが」
 考え込むときの泗杏の癖で、人差し指でこめかみを軽く叩いた。
 由乃とは比較的親しくしていた泗杏も、由乃が森で迷ったということはありえないと思った。
「由乃が倒れていたのはどこだ?」
「森の奥。小さな泉の側」
 渓夜の答えにしばし考えを巡らせていたが、突然立ち上がると杞莉を呼び何事か言いつけた。杞莉は頷くとすぐさま扉の向こうに姿を消した。
「さあ、俺達も行こう」
「どこへ?」
「村だろう? 他にどこに行く」
 歩き出した泗杏が唇の端に人の悪い笑みを閃かせて言った。

一瞬であった。
 目の前には見慣れた村の風景がある。
「平気か?」
 泗杏がふらつく渓夜を支えて問う。
「今の何?」
 泗杏の腕に支えられてようやく立っているという体の渓夜が半ば茫然として訊いた。
 一瞬前までは確かに泗杏の家の小部屋の中にいたのである。それが「目を閉じろ」と言われて閉じた瞬間、床が抜けたかのような感覚に襲わ
れた。そして「もういいぞ」と言われて目を開けると村の入口に立っていたというわけなのである。渓夜でなくても驚く。
「以前あの屋敷に住んでいた奴の忘れ物だ」
「だから何?」
「テレポーターだ」
「?」
 きょとんとして泗杏を見る。それを見て泗杏が笑う。
「自分が強く願った場所へ瞬時に送ってくれる便利なものだ。ただ、帰りは自力で帰らねばならんと言うのが唯一の難点だ」
 言い終えてまた笑う。
「泗杏っ」
 どうやら自分が笑われているらしいと気づいた渓夜がむっとしたように笑っている男を睨つける。それが余計に泗杏の好意的な微笑を誘うのだ
とは渓夜は露とも思っていない。
「怒るな。何もお前を馬鹿にしているわけではない」
「じゃあ、何で笑ってるんだよっ」
 泗杏は答えずに歩き出す。仕方なく渓夜はその後を追って小走りに駆け出した。

 由乃は昏々と眠っていた。
「どう?」
 寝台の傍らに膝をついて由乃を診る泗杏を見た。
「このままでは長くはないな」
 立ちあがって泗杏が言う。感情はこもっていない。事実を述べるだけの冷厳な響きを持つ声音。
 渓夜は無意識のうちに腕を抱いた。
「…由乃は助からないの?」
「たぶん」
「どうして」
 小さく息を吐き出して、泗杏は渓夜を見た。
「……魂が、精神がないんだよ。ここにいるのは由乃の抜け殻だ。放っておけば肉体も滅びる」
「そんな……っ!」
 渓夜ではない。声は背後から。
 戸口に女性が立ちつくしている。
「…雅隹(あとり)」
 言うべき言葉が見つからない。
「泗杏、お願い。あなたなら……、あなたなら由乃の目を覚ますことができるでしょう? 泗杏、私にできることなら何でもします。どいうか、由乃を
助けて」
 はらりと涙が落ちる。声が掠れて頼りない。ともすれば今にも泣き崩れてしまいそうになるのを懸命に押さえているのがわかる。
「泗杏……」
 渓夜の呼びかけた声は囁きに近かったが、泗杏には届いたようだ。
 ゆっくりと視線を上げ、渓夜を見た。
「泗杏」
 泗杏は、ただわかっているという風に頷いて見せた。その肩に、戸口から駆け込んできた黒猫がひょいと飛び乗った。
「ああ、お前か」
 低く呟いた。猫は、金の瞳でじっと泗杏を見つめている。
「……そうか。やはりな」
 納得したように一人ごちると、くるりと由乃に向き直って早口で何事か唱えた。
「泗杏?」
 怪訝そうに泗杏を見る。
「念のためだ。これでしばらくはもつ」
 何が、とは言わなかった。渓夜も黙っていた。
 雅隹が由乃の傍らに膝をついてその手を握る。そして、祈るような瞳で泗杏を見た。
 泗杏は軽く頷いた。
「さて、俺は行くが…」
「僕も行く」
 泗杏の言葉を遮って渓夜が言った。たとえ無理においていったとしても追いかけてきそうな勢いだ。
 泗杏は苦笑を浮かべて渓夜を促した。
「…行こう」

森の奥に足を踏み入れると陽光がだんだんと届かなくなり、見渡す限り鬱蒼とした木々になった。この辺りになると、由乃と同様によく森に狩り
にやって来る渓夜でさえもよくわからない。道は既にない。先程消えてしまったのだ。泗杏は気にせずに無造作とも思えるような自然な足の運び
で獣道を進んで行く。
「泗杏」
 前を歩いていた泗杏が呼びかけに応じて足を止めて振り向いた。
「怖くなったか?」
 覗き込むようにして顔を近づけてくる。
「今からでも遅くはない。村へ帰るか?」
「行く」
 青く澄んだ目が真っ直ぐ泗杏の闇色の瞳を見返した。
 揺るぎない視線を受けて泗杏は目を細めた。
 優しげな瞳の奥に驚くほど強い意志の光を秘めている。
 そんな渓夜の瞳が自分に向けられることを心地よく思う。
「…ならば行こう。もうすぐだ」

 しばらく行くと問題の泉のところに出た。歩いて一周するのにさほど時間がかからないというような小さな泉だ。辺りは鬱蒼と暗く、わずかな太陽
の光が透明な水を湛えた泉にそそいでいるばかりだ。
「ここ?」
「そうだ」
「……なんか、淋しいところだね。どうして由乃はこんなところに来たんだろう」
 そう言って渓夜は澄んだ泉を覗き込んだ。
 しかし、そこには水鏡に映るはずの渓夜の顔はなく、不安そうにこちらを見つめる由乃の顔があった。
「泗杏! 由乃が!」
 渓夜の肩越しに泉を覗いた泗杏にも見えた。水面に閉じ込められた由乃の姿が。
「渓夜は少し下がっていろ」
 渓夜を後ろに下がらせて自分は泉の縁に立つ。
「精霊術は得意ではないんだが」
 そう呟いているのが聞こえた。それでも傍から見れば、何の苦もなくそれを行っているように見える。忙しく動かす手は宙に複雑な模様を描き出し
ている。精霊達の言葉である。
 泗杏の口からは低い歌うような声が洩れている。声は不思議な旋律を作って流れ、水面を波立たせた。
 そして、それは徐々に何かの形を作り始めた。
「出てきたか」
 泗杏の言う通り、やがてそれは美しい女性の像を結んだ。それは、泉に棲む水精(すいしょう)であった。
「由乃を返してもらおうか」
『嫌よ』
 何の前置きもない単刀直入な泗杏の申し出に水精も即座に答えた。
『あの人はどこにも行かない。ここにいるのよ』
 喋るたびに水が動く。
「お前は人間で由乃は人間。所詮相容れぬものだ。おとなしく由乃をこちらの世界へ戻せ」
 水精は静かに首を振る。
「どうして、由乃を。何故、由乃じゃなきゃならなかったの!?」
 叫んで渓夜が泗杏の傍らに立った。
「渓夜!」
 泗杏が鋭く制するが渓夜の耳には入っていない。
『あの人はよくここに花を摘みにきていたわ…』
 よく見ると、確かに泉の側には淡く青い花が咲いている。渓夜にはそれが雅隹の好きな花だということがわかった。由乃はこんなところまでそれ
を取りにきていたのだ。
『そして私達は出会ったのよ。今までの寂しさが嘘のようだった。幸福だったわ』
 そう言って水精は微笑んだ。目の前の水精が、人間を一人さらったのだという事実を忘れてしまいそうなほど清雅な笑みだった。
『……光……』
「え……?」
 呟きにはっと我に返った。
『…光が欲しかったのよ。たった一人、闇の中で光を夢見てきた』
 また、水が動いた。
『彼は光だった……それなのに、彼は』
 ざわっと水面が揺れた。
『やっと手に入れた。……渡さないわ、人間なんかに。誰にも、渡さない!』
「いかん。渓夜!」
「!?」
 渓夜は何が起こったのかもわからずに草の上に転がった。
 泗杏に突き飛ばされたのだと気づいたのは自分が立っていた場所に目をやったときだった。右肩を押さえて立っている泗杏の顔が苦痛に歪ん
でいる。じわりと血が滲み出る。
「泗杏っ!?」
 慌てて駆け寄ろうとする渓夜を押し留めて泉の方を見た。
 水精の身体がどす黒く染まっていく。
 美しく澄んでいた姿が、今は禍禍しい邪気を纏っている。
「杞莉! 渓夜を頼む」
 その言葉に、木々の中から影の一部が渓夜の傍らに舞い降りた。それは一匹の黒猫であった。由乃の部屋で泗杏の肩に乗った、あの猫である。
「杞莉……?」
 渓夜は自分を守るようにしている黒猫を不思議そうに見た。

 感情を表さない闇色の瞳が変貌する水精を見つめている。それは、どこか自嘲を含んでいるようであり、また、哀しげでもあるように渓夜の目に
は映った。
 邪精に変じた時点で既に自我は消滅している。昇華させるしかない。
 泗杏は目を閉じて精神集中に入った。
 黒猫―いや、もう杞莉といってもいいだろう―が心得たように泗杏のまわりに結界を張り巡らす。水精の放つ邪気と襲いかかる水はその結界に
阻まれて泗杏には届かない。渓夜のまわりにも同様の結界が張られている。
 泗杏が唱えているのは渓夜が聞いたこともないような言葉だった。先程やっていた精霊術ともまた違う。
『泗杏様が使っておられるのは古の時代の言葉です』
 黒猫はニャーと鳴いているのだが、何を言っているのかわかる。確かに渓夜のよく知る杞莉の声だ。
 詠唱を終えた泗杏が目を開けた。その身体が淡い光を放っている。
 泗杏の瞳に正面から見つめられた水精は射竦められたかのように動きを止めた。
「……!」
 鋭く発せられた言葉は聞き取れなかったが、伸ばされた手から放たれた光が水精の身体を貫いたのははっきりと見えた。
 一瞬光が大きくなって、弾けた。
 後に残った水精は、やがて透き通り、そのまま大気に溶けるように消えた。
 消えていく水精をじっと見つめていた泗杏の瞳から一粒の涙がこぼれた。
「……代わりに、泣いてやることしかできん」
 そう呟くのを渓夜は聞いた。
「泗杏……」
 心配そうにこちらを見上げる渓夜に泗杏は普段と変わらぬ声で言った。
「由乃なら大丈夫だ。今頃は目を覚ましているだろう」
 促されるままに泉に背を向けた。
「……なんか可哀想だったね」
 見慣れた森の道に出た頃に渓夜は泗杏に言った。
 泗杏は「そうだな」と言ったきり、村に着くまで口を閉ざしたままだった。

 心地よい風がテラスを吹き抜けていく。泗杏は眠っているように見えた。渓夜は向かい側に腰を下ろして黙って杞莉のいれてくれたお茶を飲ん
でいた。
 無理に起こすつもりはない。
 件の由乃はすっかり元気になって、また森にでかけている。
「……杞莉」
 いつものように傍らに控えている杞莉に声をかけた。話し相手が欲しかったのと、訊いてみたいことがあったのだ。
「はい?」
「どっちが本当の杞莉?」
 渓夜が言っているのは、あの時杞莉が猫の姿をしていたことだ。
「……さあ。わかるように説明しろと申されましても困りますが。けれど、私にとって、それはどうでもいいことなのです」
 謎めいた微笑を浮かべて言った。
「私は私です。≪杞莉≫という名の唯一無二な生命」
 その存在、全てが真実だと。
「……それが私です」

 泗杏は黙って二人のやり取りを聞いていた。
 眠っているわけではなかったのだ。
 『光が欲しかった』と言っていた水精の言葉が己のことのように心に響いた。
 そう、自分こと光を欲してやまなかったのだ。故郷を去ったのも結局耐えられなくなったからだ。
 そして、この森で渓夜に出会い、光を手に入れた。それは、泗杏が欲してやまなかった生命の輝きそのもの。
「泗杏様?」
 怪訝そうな杞莉の声に思考を中断し、目を開ける。
「何だ?」
「いえ。眠りながらお笑いになるのはやめた方がよろしいかと思うのですが。…渓夜様がひどく怯えていらっしゃいます」
「……わかった。気をつけよう」
「泗杏。お茶にしよう」
 無邪気な笑顔で渓夜が誘った。
「ああ。そうしよう」
 この他愛のない日常こそが至福であった。

                                                                  FIN


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