伽守の森余話                                           
霧の夜会




 薄い霧が森全体を包み込んでいる。はっきりしない天気だ。降りだしそうで、なかなか降りださない。空もどうしようか迷っているようだ。
「泗杏(しあん)様、危ないですよ」
 二階から本を抱えて下りてきた泗杏に階段の下から杞莉(きり)が声をかけた。
「平気だ」
 両手に抱えた本を顎で押さえながら泗杏が答えた。あんまり平気そうには見えないが泗杏は自覚していない。
足元はおそらく見えていないはずだ。
 泗杏はそのまま下りてきて最後の一段を踏み外した。
「うわっ!」
 銀の髪が床に触れる寸前、落下が止まった。素早く伸びてきた黒い腕が泗杏の身体を掴んだのだ。
「……すまん」
 腕の主は杞莉。黒いというのは杞莉の着ている服だ。
「だから、危ないと申し上げたのに」
「いや、悪かった。おかしいな、階段の数を数え間違えたか……」
 杞莉は、ぶつぶつと一人言を言っている泗杏に拾った本を手渡しながら、呆れたように溜息をついた。
「暖炉に火を入れておきましたので、本をお読みになるのなら居間がよろしいですよ。紅茶をお持ちしましょうか?」
「今はいい」
「泗杏様」
 と、居間のほうへ歩き出した泗杏を呼び止めた。
「泗杏様、特にご用がないのなら私は少し留守にしますがよろしいですか?」
「かまわないが。どこへ行く?」
「森へ。香料が切れそうですので。何か他に入り用な薬草でもおありですか?」
「そうだな……」
 少し考え込むように軽く人差し指でこめかみを叩く。 頭の中に手持ちの薬草のリストを広げて確認しているのだろう。
「ないな」
「よろしいのですね」
「ああ。なくなったら自分で取りに行くさ」
 器用に片手で本を抱えて手を振って見せる泗杏に杞莉は笑顔を向けた。
「では、行ってまいります」
 杞莉は踵を返すと足早に廊下を歩み去った。

 杞莉が早めに火を入れておいてくれたらしく、居間は程よく暖かかった。泗杏は暖炉の前の安楽椅子に本を下ろすと円卓を運んできた。あらためて本を円卓に積み上げる。
 窓の外は風もないのか、森を包む霧が動き出す気配は全くない。泗杏はその灰色に閉ざされた世界に懐かしさを感じた。
「……お前は覚えているか、杞莉」
 窓の側に立ち、一人ごちた。
 それは捨て去った故郷にある森によく似ていた。
「お前に会ったのは、あの森だったな」
 安楽椅子に戻り深く腰を下ろした。
 積み上げられた本の中から一番上のものを取り上げて、重厚な装丁の表紙に書かれた古めかしい文字を読んだ。 
 夜会(ソワレ)。
「……あれはそう呼ぶに相応しいかもしれんな」
 泗杏はページをめくった。

           ◇                                              ◇ 

 その少年に周りのものはすべて敵意を抱いていた。それと同様に強い羨望と敗北感。そしてそれらを凌駕する抗いがたい恐怖。
 一族の誰よりも強大な力を授かった少年、泗杏。
 祖父の後を継ぎ一族をまとめていかなければならない、その類い稀なる魔術の才能ゆえに。
「何故あんな子供に」
「我々は膝を屈しねばならんのか」
「いくら長(おさ)殿のお言葉とはいえ素直に従うことはできん」
 影で囁かれた噂は泗杏の耳にも入っていた。入らないはずがない。放っておいても頭の中に流れ込んでくる多くの意識。
……害意。
『オ前サエイナケレバ』
『魔物ニ見入ラレタ子ヨ』
『恐ロシイ……』
 親にさえ忌み嫌われた子。
 祖父が病の床についてからはよりいっそう周囲の目が泗杏に注がれた。
 白皙の美貌を飾る漆黒の瞳と銀の髪。
 端然と廊下を歩むその姿は万人の溜息と畏怖の念を誘った。
 誰もが疎ましく思いながら報復を恐れて手が出せない。 泗杏も必要以上人前に姿を現さなかった。ほとんどが自分に与えられた部屋に引きこもって魔術書を読みふけっているのだ。
 だが、誰にも気づかれず、また、気づかせず泗杏は時々屋敷を抜け出しているのだ。
 行く先は近くの森。いくら泗杏が強大な力を持っているとはいえ、流れ込む意識を遮断するのは疲れる。むろん、既にそれは無意識でのことだが精神的な疲労は変わらない。

「全く息のつまる。時々あの屋敷ごと吹っ飛ばしてしまいたくなるな」
 一本の大木の根元に腰を下ろしながら思いきり伸びをした。泗杏なら今の言葉を実行に移すことなどたやすい。
 銀色に輝く月光が木々の合間を縫って降り注いでいる。
「このように静かな夜には精霊達もよく現われると聞くが……」
 その言葉が終わらぬうちにあちらこちらから精霊達が姿を現し始めた。泗杏に敵意がないと知って出てきたのだろう。
 木の精、風の精、闇の精、大地の精……。
 どこからともなく現われ出てはどこへともなく去っていく。さながら月光の下、舞う踊り手のように。
「ならば」
 何を思いついたのか不意に泗杏は宙に精霊文字を描き出した。それは水の精霊を召喚するものだ。
 低く歌うように流れる声が辺りを包んだ。
 しばらくすると泗杏の周囲を霧が覆い始めた。水の精霊がやってきたのだ。 
「そら、夜会に相応しい舞台をつくってやろう」
 泗杏の言葉に呼応して霧が動いた。精霊達は各々が淡い光を発している。それが舞い踊り、霧を通して幻想的な世界を作り出していた。まるで彼らの棲む世界、精霊界へと迷い込んだように思えた。
「お前達にまで心を閉じる必要はない、か」
 そうして泗杏は屋敷内では決して得られることのない暖かい波動を一身に受けるのだった。
 そうやって時折息抜きをしながら泗杏は自分の置かれた境遇を受け入れていた。

         ◇                                               ◇ 

 そんなある日、泗杏がいつものように森でのんびりと精霊達の舞を見ていると何者かの意識が流れ込んできた。 ココハドコダロウ……
 ワタシハナゼココニイルンダロウ……
 アア ワカラナイ
 ワタシハマエカラコンナスガタヲシテイタノダロウカ 声は悲しげに自分自身に問うていた。
「誰だ……?」
 泗杏は立ち上がって辺りを見回した。警戒したような気配を敏感に察して精霊達は去っていった。
「どこにいる?」
 最後に水の精霊が去り、霧が晴れた。
 ワタシハ ズットヒトリダッタノダロウカ
 アア ワカラナイ
 森の奥から何かがやってくる。
「お前は何だ。精霊ではなさそうだが……」
 現われたものをじっと見つめる。それは泗杏から少し離れたところに漂っていた。一見球体にも見えるがそれは様々な姿に変わりながら浮遊している。一時として同じ形にとどまらない。
「……俺に用があるのか?」
 アア ワカラナイ
 アナタハダレ? ワタシガワカルノカ……
 ダレニモミエナカッタワタシガ
 アナタハミエルノカ?
 それの問いに泗杏は無言で頷いた。
 それは泗杏に近づくとその周囲を取り巻いた。
「何だ」
 アナタハ ダレ? 
 ワタシハ ダレ? 
「お前自分がわからないのか? お前は一人なのか?」 
 アア ワカラナイ
 不安で押し潰されてしまいそうな声に泗杏は優しげな笑みを送った。彼にしては至極珍しいことだ。他人にそんな笑顔を見せるとは。
「考えるな。わからなくていい。誰も自分の本当の姿なんて知りはしないから」
 アナタハジブンガダレダカシッテイル
「知らないさ」
 デモ アナタニハナマエガアル
「名前?」
 ソウダ ジブンノソンザイヲショウメイスルモノ
 声の言い分に泗杏は笑った。笑って最後に消えそうなほど儚げに微笑を浮かべて自嘲気味に呟いた。
「名前が存在を証明するとは限らないさ。名前がなくとも俺は俺だ。少なくとも俺はこんな名前一つで俺の正体が証明されるなんて思ってはいない」
 断言する泗杏をそれは暖かく包み込んだ。
 アナタハ ヤサシイヒトダ
 ソシテ サミシイヒトダ
 それは抱きしめるようにその密度を増した。
「……名前なら、俺がつけてやる。俺がお前の存在を証明してやる」
 アナタガ?
 声は戸惑うように泗杏から離れた。泗杏は名案だといわんばかりに真剣に名前を考え始めた。
「……お前は『杞莉』だ。いいか」
 キ、……リ……
「そうだ、不満か?」
 声は黙っている。あまりに唐突すぎて対応に困っているようだ。
「嫌か?」
 ソンナコトハナイ トテモウレシイ 
 アリガトウ……
「……今夜はお前に会えてうれしかった」
 そう言って泗杏は踵を返す。声の出現でいつもより遅くなってしまったのだ。もうそろそろ屋敷に戻らなければならない。
 アナタノナハ?
 走り去ろうとする泗杏に声が聞いた。
「泗杏だ。明日の晩また会おう、杞莉」
 そう言い残して泗杏は去った。残されたそれは喜びに声を震わせた。
 ワタシノナ……
 キリ……
 しばらくの間は喜びをかみ締めるようにじっとしていたが、やがて泗杏の去って行った方に移動してその名を呟いた。
 シアン……
 ドコカデキイタコトガアルヨウナ
 アア ワカラナイ

               ◇                                      ◇ 

 泗杏の夜毎の夜会は続いていた。杞莉という新しい仲間を加えて。
「なあ、杞莉」
 そう呼びかけて傍らを振り返った。そこには杞莉と名づけられたものが返事をするように形を変えながら漂っていた。
「お前に見せたいものがある。屋敷まで一緒に来ないか」
 ヤシキ……
 シアンノヤシキ……
 呟くような声は何故だか呻きのように聞こえた。
「どうかしたのか?」
 声は戸惑うように形を変えた。
 ワカラナイ オモイダセソウデソレガデキナイ
「まあ、深く考えるな。俺の屋敷に関係あることなら一緒に来れば何か思い出すことができるかもしれん」
 ……
「来るか?」
 声は答えず、歩き出した泗杏の後に続くことで同意を示した。
 
イッテハナラナイヨウナキガスル
 ワタシガイッテハナラナイヨウナキガ……

「泗杏!」
 屋敷へ足を踏み入れた途端、そう声をかけられた。
「こんな時間にどこへ行っていたのだ」
「伯父さん」
 振り向いた泗杏の顔がたちまち無表情のそれに変わる。杞莉に見せていたような笑顔などこの屋敷で浮かべたことなどない。ここで必要なのは笑顔ではなく、悪意に耐えられる強さなのだから。
 精巧無比な美貌。
 その中で、限り無い静寂を湛えた漆黒の瞳が目の前に現れた伯父の姿を映していた。
 泗杏の伯父にして、第二の実力者である。泗杏が存在しなければ、間違いなく彼が長のあとを継いだだろう。
「何か?」
 全く隙のない、冷ややかに響く声。
 泗杏は礼儀という名の甲冑で全身を鎧った。
「……泗杏、お前何を連れている?」
「見えるのですか? 伯父さん」
「馬鹿を言え。高等魔術の使い手である私にそれが見えぬわけがないだろう」
 泗杏の背後を透かし見るようにしていた伯父の顔がすうっと青ざめる。
「……それをどうしたのだ?」
 尋ねる声は蒼白である。
「拾ったのですよ」
「嘘をつくな!」
「嘘?」
 伯父の言葉に泗杏は訝しそうに首をかしげた。
「何故、そうお思いですか」
「……本当に拾ったのか。では、お前は何も知らんのだな」



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