薄 氷





 彼は、ふと自分自身を見た。
 黒い髪、瞳、白い肌。身体を巡る赤い血潮。滞ることなく鳴っている心音。
 人間。
 そう、人間。
 あまりにも、脆く、儚い。
 魂の器。
 彼は自分自身に対する疑問の答えを見つけるべく、内へと目を向けた。
 
 心の奥(なか)へと――。


 彼は、語りかける。誰に、と言うわけでなく、ただ事実を述べるが如く、淡々と言葉を連ねていく。
「十年前、一度、僕は壊れてしまったのです」   
 自身を玩具の人形か何かのように言う。
「あの頃、僕はまだ子供でした」
 彼らに対するものなのか、自分に対するものなのか、判別できない怒りと悲しみの前に、ようやく形成され始めたばかりの精神を、剥き出しの自分自身を晒してしまった、と。
 彼は、思い出すように慎重に言を継ぐ。
「彼らの行為と言葉は、何の抵抗力も持たない赤子のような僕の精神を、容赦なく、切り裂いたのです」
 そっと、胸に手をやって彼は言った。
「そして、何より、自分自身の弱さが、苦しまなくてもいい人までも、苦しめてしまった」
 それが、今なお、僕を支配している一本の糸。
 肩を抱いて、僕のために泣いてくれた友。
 差し伸べられた手を、僕は振り払ってしまったのです。
「僕にできたことは、ただ謝ることでした」
 お前は悪くないのだ。
 悪いのは自分の弱さ、お前の手を取れなかった自分自身の、傲慢さのせいなのだから。
 そう、僕は、優秀だった友を妬んでいたのです。皆に好かれた友を。自分が、彼の友であることを誇りに思うのと同等に、僕は、彼を憎んでいたのです。
「友の手を振り払ったことで、僕が得たものは、無限に広がる空白だけでした」
 それ以来、僕は、居場所を求めて歩き回るはめになったのですよ。
 自嘲を含んだ笑いを浮かべて、彼は目を伏せた。
「僕は、逃げ出したのです」
 見知った顔ばかりに囲まれる生活に嫌気がさし、がむしゃらに、後ろも振り返らずに。
「ただ、逃げたのです」
 一つ溜息を洩らし、目を上げた。
「……僕は知っていたのです。そして、知らないふりをしたのです」
 友の寂しさを。
 僕に対する思いやりを。
 知っていて、友に背を向けたのです。
 そこまで話すと、彼は穏やかに微笑んだ。
「それからしばらく、うわべだけの平和の中で、空白を埋めることは叶わなかったけれども、僕は、それなりに幸せでした」
 それが唐突に終わってしまったのだと、彼は言う。
「友と別れてから三年、いや、四年ほど経った頃でしょうか。僕は再び壊れたのです」
 壊れた精神は、またつくられる。
 完全に元どおりになるわけではない。けれど、それでも、またつくられるのだ。
 それもまた、壊されてしまった、と彼は薄い笑いを浮かべた。
「叩き壊されたのですよ。…僕という人間の全てを」
 その時に、何かをなくしてしまったのではないかと彼は思っていた。
 彼が自身に対して抱く疑問も、それが原因ではないのか、と。


「……人を、愛することができないのです」
 彼は、ぽつりと呟くように言った。
 無表情の下に、苦痛の色を隠して。
「わからないのです。人を愛するということが。頭では理解していても、感情がついていかない」
 泣くほどに、身を裂くほどに……そして、死ぬほどに、恋い焦がれる感情が。
「――僕には、わからない」
 表情は変わらない。
 その声だけが、彼の悲しみと苦悩を訴えている。
 周りから取り残されていく。
 焦りと孤独と不安が、少しずつ彼を壊していく。
「僕は、人ではないのだろうか」
 思わず洩らした言葉が、波紋を描きながら精神に広がっていく。
 人では、ない……。
「ふ……ふふっ。ふははっはははははははは……」
 突然笑いだした彼は、自分の言葉の正しさに驚いていた。
 そうだ、自分は人ではなかったのだ。
 生まれたときは人であったのかもしれない。でも、今は違う。
 人ではない。
 その一言で、今までの自分の感情の不自然さが、自然に変わった。
 
 彼の足もとに、残っていた最後の氷が割れた。
 最初の一石を投じ、氷にひび割れを作ったのが、誰であるのか、今となってはわからないが、最後に氷を踏み割ったのは彼自身。
「僕は、どうやら人形になってしまったようです」
 疑問に対する答えを得たことが彼にとって、幸福であったのか、不幸であったのか、誰にもわからない。
 それはおそらく、彼自身にさえも。


                                                                                    <終>
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