救急隊員が清明の状態を見て取って、再度促した。
「こんなにも血を失っている。早急に輸血をしなければなりません」
「結構です」
「しかし、あなた……っ」
 救急隊員がそう声を荒げた時、唐突にざわめきが止み、沈黙が落ちた。
 人垣が割れて一人の青年が歩み寄ってくる。青年は地面に居る清明の側まで来るとぴたりと止まった。じっと清明を見下ろすと苦しげに吐き捨てた。
「……何故そう無茶をする」
『無茶はしていないよ』
 空気を震わさぬ声で答えた。清明は伏せていた顔を上げて青年の金の瞳を見つめ、そして、微笑む。
 明らかに消耗を感じさせながらも清雅な微笑みに青年はその金色の目に翳りを見せた。
「これでもお前のことは信用しているつもりだ。待っていれば来ると思っていた」とは、清明は言わなかった。 ただ、微笑しただけである。
 青年はすっと屈むと無言のまま清明を抱き上げた。壊れものを扱うかのように静かに、恭しく。
「君は誰なんだ」
 清明を抱えたまま行こうとした青年を救急隊員が詰問する。
 得体の知れない人物に怪我人を渡すわけにはいかないと思ったのであろう。
 それに対して青年が口を開こうとしたとき新たな人物が人込みをかきわけて現れた。
「清明!」
 やってきたのは少壮の男だ。長い黒髪を後ろで一つに束ねている。
「皓?」
 清明が微かに男の名を呼んだ。
「何故……」
 清明を抱えて人垣の中に立つ青年を見遣った。それから笑顔を向ける。
「何だ、来てたのか。お前が来てたんなら俺が慌てて飛んでくることなかったな」
 そう言ってから救急隊員に向き直って会釈する。
「この男の身内の者です。皆さんには申しわけないが私共が連れて帰ります」
「しかし、病院へは?」
「いつもの発作ですから御心配なく。掛かり付けの医者が既に家のほうに待機しております」
「そちらは?」
 清明を抱えたままの青年を指して訊く。
「皓様……」
 言外に早急の手当を促す。そんな青年に一つ頷いてみせる。
「彼は専属の看護士ですよ。では、急ぎますので」
 皓と青年の姿が人垣の向こうに消えると、ようやくその場にほっとした空気が流れた。
 薄暗い小道に素早く入った二人は誰も見ていないのをいいことに清明のマンションまで瞬時に移動した。
 青年が清明をベッドに下ろしたとたん皓が怒鳴る。
「妖糸はいつでも切れると言ったなっ、清明。危なくなれば切ると言っただろう。なのに何だこれは。死にたいのか、お前は」
「皓様」
「杜。いいから」
 清明はそう青年、杜を制すると皓を見た。
「……確かにそう言った。あれは嘘だよ」
 静かに目を伏せて言葉を続ける。
「この糸は切れないよ。あの夢の通りこれは私の妖刀でも切ることはできない」
「なっ!」
「これを切ることは不可能だ」
 絶句する皓に形容しがたい笑みを向ける。強いて言うならば宝剣の輝きに似た笑み。
「私の剣では。だが、杜の施術なら切ることができる。……杜、彼は見つかったかい」
 頷いて施術を施す。淡い光が清明の全身を包み、それが消えると何かが落ちる気配がした。
 糸が落ちたのだ。
「それでは、今宵逢いに行くとしましょうか。皓、他の二人への連絡は任せる」
「……承知した」
 皓の姿が消えると部屋はしんと静まり返った。
「いくら施術したからって今夜は無理だ」
 しばらくして杜が言った。
「俺は賛成しかねる。絶対駄目だ。今夜は。そんなことをしたら……」
「杜」
 杜は首を左右に振る。
「杜……」
「駄目だっ」
「杜、これは命令だ」
 有無を言わさぬ絶対的な支配を持つ言葉。
「いいね、杜。私は出かける。お前はここにいるんだ。……ご苦労だった」
 労いの言葉は拒絶を表していた。
 小さく頷くと青年は姿を変えた。人身から猫身へと。そのまま部屋を出ていく。清明はとめなかった。
 その瞳の奥にある想いを知るものは誰もいない。



 ガタガタ ガタッ
 物音で目が覚めた。時計は午前一時を指している。
「……やだ、何? 泥棒?」
 彩佳は起き上がるとそっと自分の部屋を出た。手探りで居間の電気をつける。
「きゃ」
 目の前に現れた人影に思わず声を上げる。
「お、お兄ちゃん」
「……彩佳?」
「どうしたの? こんな時間に。お兄ちゃん! 血が」
 兄の手にはべったりと血がついていた。慌てて持ってきた濡れたタオルで両手を拭う。
「本当にどうしたの。帰ってくるなら一言、言ってくれればよかったのに」
「ああ」
 曖昧に頷く兄を不思議に思いながらも着替えを用意した。
 兄は彩佳より九つ上で独身だが一流会社の社長秘書としてしっかりと独立していた。実家へは一ヵ月に一度は顔を出すまめで優しい兄だ。それがここ何ヵ月か様子がおかしい。家へは来ないし連絡一つない。そして今夜の突然の訪問。彩佳は大好きな兄をじっと見つめた。
「お兄ちゃん、何か変だよ。それにこの間ニュースで言ってたU会社ってお兄ちゃんの……」
 どきりとしたように一瞬顔を強張らせたがすぐに何でもないように笑って見せた。
「心配しなくても大丈夫仕事のほうは平気だから」
「本当に?」
 心配そうに見上げる妹の頭に手を置き薄く笑う。
「……ああ、何でもないよ。ただ、悪魔に魅入られただけだ」
「お兄ちゃん?」
 不意に顔を上げた兄は真剣な顔で彩佳を引き寄せた。そして咄嗟に声を出せないでいる妹を抱えたまま外へ走り出た。

「ありゃー、気付かれたかなぁ。ちゃんと気配は消したんだけどな。……奴も相当できるってことか」
 妙に楽しげな声は吹き抜ける風の中から聞こえた。雲が晴れて声の主を夜の中に浮かび上がらせる。
「しかも、人質取られちゃったみたいね」
 明るい色の髪に透き通る空の青さを持つ瞳。小柄な身体は少年のものだ。
「水城、どうした」
 背後で上がった声に振り返り見知った顔を見出す。
「皓」
「逃げられたという情けない言葉は聞きたくないぞ」
「御期待に添えなくて残念。奴はあっちへ行った。言っとくけどわざとだからな。清明が極力被害は最小限にしろって言ったから。だから、何もしなかったんだぞっ」
 むきになってまくし立てる少年の頭に手をやりながら、皓は溜息をついた。
 これじゃあまるで子守りだな。
 水城に聞かれたらただでは済まないだろうことを心の中で呟いた。でもとりあえずそれは水城には聞こえていない。
「人質取られたし……」
「何!」
 聞き咎めた言葉についての説明を促す。説明を聞き終えると皓はすぐさま行動した。水城を清明の元へ向かわせ、自分は走り去った男を追った。

「ねえ、お兄ちゃん。いったいどうしたの?」
「何でもないよ」
「何でもないって……」
 彩佳はようやく兄の腕から逃れて辺りをきょろきょろ見回した。兄に連れてこられたのは近所の公園だった。
「お兄ちゃん?」
「彩佳、離れろ!」
「きゃっ」
 突き飛ばされて尻もちをつく。が、何故か突き飛ばした兄までも地面に膝をついた。
「う……うう……っ」
 顔を覆った手の隙間から低い呻きが漏れる。
「お兄ちゃんっ」
「来るな、彩佳! 来るんじゃない!」
「そう。彩佳ちゃんは離れていてほしいな。そのほうが俺も動きやすい」
                
        ゝ ゝ ゝ ゝ
 声のしたほうを見上げた。そう、見上げたのだ。
 声は頭上から聞こえた。
「こ、皓さん?」
「こんばんワ、彩佳ちゃん。少しの間目をつむっててくれるかな。その間に俺の用事済ましちゃうから」
 そう片目を閉じて見せたのは、やはり清明の部屋で見た皓だった。
「何で、皓さん浮いて……、あなた、何者……?」
 まずいなという風に皓は顔をしかめると地面に降りた。脅えたようにこちらを見る彩佳に、とりあえず笑顔を向ける。
大体なんでよりによって奴が連れて逃げたのが彩佳なのだ。いったい二人はどういう関係なのだ。親子、にしては歳が近すぎる。もしかすると、
「お兄ちゃんに皓さんが何の用なんですか!」
 当たってほしくなかった予想が当たって皓は鋭く舌打ちした。どう説明しようかと口を開きかけたとき新たな声が割って入った。
「それはもう君のお兄さんじゃない」
「清明さん?」
「清明」
 現れたのは清明、水城、麻耶の三人だった。
 久しぶりに四人全員が顔をそろえたことになる。
「水城、彼女を」
 清明の指示で素早く水城が動く。茫然とする彩佳を抱き抱え背後に下がる。
「……それは、あなた自身が望んだこと。責任の一端はあなたにもある。わかるな」
 蹲る男に静かにそう告げる。男は低く呻いたまま肩を震わせた。
「あなたを動かしている奴はどこにいる」
「君によく似た男に会った……一度だけだ。どこにいるかは知らない。本当だ」
 喘ぐ声が告げる。
「どういうこと? 清明」
「お前によく似たと言えばあいつか! しかし、あいつが何故人界にいるんだ」
「あんな奴清明になんてちっとも似てないよ! それにいるわけないじゃないかこんなところに。あいつは今も結界の中に閉じ込められているはずだよ。もうずっとそうだったんだ。それなのにここにいるわけない!」
 滅多なことでは動じない彼等が戸惑うような視線を交わす。
「ウワアアアアアァァッ!」
 蹲っていた男が突如鋭い叫び声を上げた。視線を戻した先で男がゆらりと立ち上がるのが見えた。目が爛々と光っている。
 操られている。
「お兄ちゃん!」
 彩佳は叫んで水城の腕を振り解き、兄に駆け寄った。ちっと鋭く舌打ちして皓が走る。間一髪で彩佳を抱え跳躍する。
「どうするの? 清明」
 低く身体を沈めていつでも攻撃できるようにしたまま、麻耶が尋ねる。表情が暗い。彩佳のことを思っているのだろう。
「魔に染まったものはすべておくらねばならない。……例外はない」
 きっぱりと告げる清明も幾分表情が固い。すっとかざした手に一振りの剣。それに呼応して水城が両手に力を込める。手の中に光球が現れる。
「水城」
 清明の声に応じて空へ浮き上がる。麻耶は既に男の後ろに回り込み、皓は彩佳を抱えて後方に下がった。
『殺せ……殺すのだ! さもないとお前が殺されるぞ! さあ、何をしている。はやく奴等を殺すのだ!』
 男の頭の中に例の声が響いた。あれ以来ずっと頭の中で囁き続ける声だ。
「ウワアアアッ!」
 声に支配された男は正面にいる清明に突進する。ひらりとかわした清明が男の背後に向かって剣を振るった。 やはり糸は切れない。
「水城、麻耶。傷を付けるな、捕縛するんだ!」
 晧が彩佳を押さえながら叫ぶ。
「晧!」
 嫌そうに水城が抗議の声を上げる。
「だめだ! 水城。彼女の前だ。殺すな!」
 そういって清明のほうを見遣る。清明は黙って頷くと剣を闇に戻した。それを見てしぶしぶ水城も攻撃をやめる。麻耶が素早く男の周りに結界を張って閉じ込める。
「どうするんだよっ。捕まえったってどうしようもないじゃないか」
「まあ、待て。水城。杜を呼んで糸を切ってしまえばこの人は助かる」
「晧、それは可能だけど、そうしたら後ろで操っている奴はどうするの?」
「そうだよ! また最初からやり直しじゃないか」
 清明は黙って男に近づく。
「う……うう…っ」
「あなたにこんなことをさせているのは、本当に私に似ていたのか。その男は今も命令しているのか、我々を殺せと」
「…声が……聞こえるんだ。……ずっと、今も……」
 途切れ途切れに言葉をつなぐ男の顔が少し理性を取り戻したようだ。
「お兄ちゃん!」
 彩佳が晧にすがりつく。
「お願い、晧さん。お兄ちゃんを助けて!」
「……」
 晧は無言のまま清明を見つめている。清明は黙って立ち上がるとじっと闇の彼方を睨み据えた。



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