「ですから、何のことかと聞いているではないですか」
 泗杏の答えに一瞬安堵の表情を浮かべた伯父は泗杏の背後にいる杞莉を鋭く睨んだ。その視線に杞莉が動揺したように揺れた。
 アナタヲシッテイル ワタシハ……
 声が恐怖を含んで言った。
「?」
 背後を顧みた泗杏を無視して杞莉は言葉を続けた。
 ワタシハ ナニカツヨイチカラニハジキトバサレ
 キオクヲナクシタ……
 ツヨイ ツヨイチカラ……
「なるほど! そういうことか!」
 杞莉の言葉を聞いて伯父が声を上げた。
「ようやく合点がいったぞ。……泗杏、お前部屋に結界を張ったな」
「ええ、それが……」
 確かに結界は張った。外部からに侵入を防ぐためである。実のところは、内からの術力が漏れるのを防ぐための方が肝心であったのだが。
 泗杏も伯父の言っていることがわかってきた。
 杞莉は泗杏の部屋に入ろうとして弾き飛ばされて記憶をなくした。しかし、何故……。
「! 伯父さん。まさか禁断の術を!」
「……その通りだよ、泗杏」
 伯父の顔が歪んだ。
「お前さえ生まれてこなければ、次の長の座は間違いなく私であったのだ。お前を除けば長殿に匹敵する力を持つのは私のみ!」
 自分にない強大な力を持つ甥への羨望、嫉妬、それを凌駕する憎しみ。
「邪悪なる神の名において命じる。泗杏を殺せ!」
 低く呪文を唱えた伯父が果たされなかった命令を今一度告げた。
 泗杏の背後がざわっと揺れた。
 明確な殺意をもって伸ばされる腕。
 杞莉は既に本来の姿を取り戻していた。
 漆黒の髪と金の瞳を持った男、邪悪なる神の眷属の姿に。
 泗杏は動かなかった。
 首にかけられた手を払いのけもせず、ただじっと自分が名づけた存在を見つめていた。
 徐々に込められていく力に苦しげに顔をしかめながら、泗杏は暗殺者の内にある苦悶をだけを見ていた。
「…俺を殺せばいい」
 泗杏は瞑目し、静かに、優しくその名を呼んだ。
「杞莉……」
 ワタシノ ナマエ…… 
 芽生えはじめていた自我が泗杏の言葉によって揺さぶられる。
 不確かで危うい、そんな存在であった自分を救ってくれたのは泗杏のあの言葉。

『……名前なら、俺がつけてやる。俺がお前の存在を証明してやる』
『……お前は『杞莉』だ』

 名づけられることによってこの世に存在することを許された。
 あの瞬間から、他の何者でもない。自分は『杞莉』なのだ。
 泗杏の閉じた瞼の上に何かが落ちた。
「どうしたというのだ!」
 狼狽した伯父の声に、泗杏は目を開けて自分を殺そうとする者を見た。
 杞莉は泣いていた。
 そこに居るのは暗殺者などではなく、森で震えていたあの一つの魂であった。
『……私には、できない』
 驚愕する伯父は杞莉に罵声を浴びせたが、杞莉はすっと泗杏から手を離すと黙って闇に溶けた。
「何故だ……」
 がくりと膝を落とす伯父に泗杏が声をかけた。
 いつもと違い、その声に哀れむような響きがこもっていた。
「あなたにはわからないでしょう。力だけを追い求めたあなたには。俺達の苦しみも悲しみも、淋しさもわからないのでしょう」
「私は……ただ……」
「……でも、俺にはあなたの苦しみや悲しみはわからない。結局、同じなんですよ、皆。……俺はあなたの考えに共感することはできない。けれど、責めることもしない。確かに俺さえ生まれてこなければ、誰も苦しまなかった」
「泗杏」
 茫然とする伯父に泗杏は歩き出しながら声を投げた。
「ご安心ください、伯父さん。私はこの家を出ます」
 驚きの声は誰もいなくなった廊下の薄闇に消えた。

 たぶんここだろうと見当をつけてやってきた泗杏は、予想に違がわぬ場所で杞莉を見つけた。
 気づいて逃げようとする杞莉に呼びかける。
「家を出た。あてはないがお前も一緒に来るか?」
 返事を待たず、杞莉の前に何かを置いた。
「実はこれをお前にやろうと思って屋敷に呼んだのだが」  
 霊界物質(エクトプラズム)で造られた黒猫の体である。
「器に丁度いいと思ってな。その姿がいいのならその姿でいられることもできるぞ。なかなか便利なものだろう」
 そう笑って見せる泗杏に杞莉は言葉を返せなかった。
「まあ、お前の好きなようにするといい。どちらにしても俺は行く。長居をしてじいさんに見つかりたくはないからな。それはやるよ。その体では何かと不便だろうから」
 泗杏はそのまま踵を返し、森の中へと歩み去った。

「……泗杏は行ったか」
 屋敷の一室で老人がそう呟きを洩らした。
「何かおっしゃいましたか? 長殿」
 つき従っている医者がそう聞き返した。
「何。ようやく出ていく気になったらしいのじゃよ」
「と言いますと、泗杏殿が!」
 老人は長年の友人でもある主治医に笑みを向けた。
 老人は全て知っていた。泗杏が前々からこの屋敷を、いや、この国を離れたがっていたことを。後はきっかけだけであった。
 それでも彼がそれを許すことはできなかった。たとえそれが泗杏のためであろうとも、「出ていけ」とは言えなかったのだ。
 できることならば、手放したくなかった。
「……あれはこの国に居ては幸せにはならんよ」
 末娘が命がけで産んだ子だ。誰よりも幸せになったほしかった。
「あれには幸せになってほしかったのでな」
 老人の呟きは誰の耳にも入らなかった。
 側に控える医者は老人の想いをくんで何も言わず、ただ力強く頷いた。

 森の出口付近で泗杏は旅の同行者を得た。
「来るか?」
 言葉少なに聞いた泗杏に、一匹の黒猫が従った。

         ◇                                                ◇

 ひっそりと降る雨が森を閉ざしている。
「ただ今戻りました、泗杏様」
 帰ってきた杞莉が声をかけたが返事はない。
「泗杏様?」
 暖炉の前に置かれた安楽椅子に深く身を沈めた泗杏の表情は、その顔を覆った本に隠されていてわからない。脇に置かれた円卓には分厚い本が山積みになっている。
「眠っていらっしゃるのですか……」
 規則正しく上下する胸がその問いを肯定した。
 いったん部屋から出た杞莉は、しばらくすると膝掛けと紅茶を持って戻ってきた。
 円卓の上の本を片付け、ティーカップを置いた。そして泗杏の顔の上に置かれた本をどけて、
「風邪をひかれますよ」
 と、声をかけ、持ってきた膝掛けを乗せた。
「ん、ああ」
 大きく伸びをして泗杏が目を開けた。
 いつもの美貌が眠そうに目をこする。
「俺は眠っていたのか……?」
「ええ」
 暖炉に新しい薪をくべながら杞莉が答えを返した。
「そ、か…」
 ティーカップをとって紅茶を一口飲むと泗杏は驚いたように杞莉を見た。
「これは?」
「今朝の雨が杏子の葉に降らせた最初の一雫を入れてみました。――お気に召しませんか?」
 泗杏は無言で再びカップを口に運んだ。充分に香りを楽しんでから口に含む。
目を閉じてゆっくり味わうようにして飲み干す。
「…うまい。これなら雨降りもそう悪いものではないな」
「泗杏様は雨がお嫌いではなかったはずですが。雨の日の読書はお好きでしょう?」
「本を読むのは雨が降ってなくても好きだ。だがまあ、晴れた日は極力外で過ごしたいとは思うがな」
「泗杏様は外へ行かれても本をお読みになりますものね」
 杞莉はくすくすと笑いながら紅茶のおかわりをカップに注いだ。
「……それはお前。貴重な魔術書もあるんだ。たまには日に当ててやらんとだな……」
 普段その《貴重な魔術書》とやらを埃の積もった床に積み上げている人物の言葉とは思えない。
「もう一杯いかがですか、泗杏様」
 主人に対する完璧な礼儀を保ちながら泗杏の言葉をさり気なく聞きながしティーポットを差し出した。
「――もらおう」
 ぱちぱちと弾ける薪の音に混じって雨の音がする。
 静かに降りそそぐ雨が森を包む。
 まるで現世から切り離されたかのような錯覚を覚えるほどに静かだ。
「……泗杏様」
 傍らに佇んでいた杞莉が不意に口を開いた。
「言うな、杞莉」
 言った泗杏と杞莉の目が互いを見つめた。
 一瞬である。
 永遠にも勝る一瞬。
 二人は交わした視線で互いの真意を知った。
 杞莉もやはりあの森を想ったのだ。
 杞莉の瞳が問う。
 国を捨て。家を捨て。すべてを捨てたことを後悔はしないのか、と。
「わかっている。…だから、言うな」
 杞莉は静かに一礼した。
「……明日は晴れるだろうか」
「きっと」
 ぽつんと漏らした一言に杞莉は笑顔で答えた。
「明日には渓夜様もいらっしゃるでしょう。このところ雨が続いてさぞ退屈しておいででしょうから」
「そうだな」
 頷きを返しながら泗杏は窓の外を見た。いつもと変わらない景色が雨に濡れている。
 泗杏は再び目を閉じた。
 先程読んでいた本の冒頭が不意に頭に浮かぶ。
 
夜会――。訪れたものに、出会いと別れを与える所。


                                                              END




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