蕭  晨




 晴れわたった夜空に、月がのぼる。
 静かでありながら、どこか張り詰めた空気が都(まち)全体を覆っている。
 王宮にほど近い建物。その庭に設けられた四阿(あずまや)に、二つの人影があった。
 一つは、この屋敷に主人である、レイ=ラール。もう一つは、その友人である、アルセスであった。
 二人は、共に王に仕える武人で、レイ=ラールは守勢に、アルセスは攻勢に長じた。
 彼らが駒を並べて戦場をゆけば、たちまちにして、敵兵の屍血で山河が築きあげられる、と言われ、その武勇と名は近隣諸国に広く知れわたっていた。
 今宵は、レイ=ラールの招きに応じ、アルセスが友の屋敷を訪れていた。
 これといって珍しいことではない。
 王宮へと出仕した帰りにどちらかの家に寄って酒を飲むのは、まだ、無名の剣士であった頃からの二人の約束事、一日の締めくくりとも言うべきことであったのだ。 しかし、今夜はどこか趣を異にしていた。
 いっこうに酔いがまわってこない。いつもならとうの昔に酔い潰れているような量を、二人で干したが、頭の中は冷たく冴えわたっていた。
「明日だな」
「うむ」
 言葉少なに交わす会話が、互いの心情を雄弁に物語っていた。
とつくに
 明日は友が発つ日。遠き異国へと兵を率いてゆくのだ。 不本意な征旅。
 東方遠征は、前々から御前会議の話題に上っていた。。だが、それがこれほど早くに成るとはいったい誰が予想し得ただろう



 誰が最初にその話題を口にしたのであろうか、今となってはわからない。ふと、気づけば会議の参加者の過半数がこの案をよしとしていた。
「今こそ、かねてよりの望みを叶えるときだ」
「先日の勝利の余勢を駆って東方へと軍を進めようではないか!」
「レイ=ラール卿とアルセス卿の御二方が陣頭に立てば、我が兵の士気高く、敵兵は恐れ戦き、逃げ去るだろう」
 戦場に出ない宮廷人の考えそうなことだ。レイ=ラールは苦笑した。
 先日の戦いでは、確かに勝利を得た。だが、当方の損害も到底無視し得るものではない。
兵士達は心身ともに傷つき、病んでいる。休養が必要だ。
「此度の出兵案には賛同しかねますな。先日の戦の傷も癒えてはおらぬし、遠征のための軍兵や軍備を整えるにも、早急に、とはいくまい」
 アルセスが皆の鋭気を制するように言葉を発した。
「機を見ることを誤れば、戦に敗れるのは必定」
「未だ時は満ちてはおらぬ。東方への道程は長く、辛い。我が君の兵をあずかる身としては充分な準備もなく行くことはできぬ」
 アルセスを孤立させないように、レイ=ラールも続けて言った。
「では、貴殿等は東方遠征には反対だと申されるのだな」
「そうは言ってはおらぬ」
 非難の目を向けた一人の男に向き直って、アルセスが静かに首を左右に振った。
「私も、レイ=ラール卿も、東方への進軍は時期尚早だと言っておるのだ。兵士達には休息が必要であろう。傷ついた獅子は、犬にさえ劣る。いくら我が軍が近隣諸国にその武勇を誇っているとしても、万全な体勢にあればこそのことだ」
 アルセスの言葉に場が静まりかえる。
 あれほど熱心に出兵案を支持していた者達が顔を見合わせて沈黙した。
「御二方の意見はよくわかった」
 笑みを浮かべた初老の男が皆を見回した。この妙な笑みを張りつかせた男が、もっともこの出兵案に賛同している宰相だ。
 宰相は重々しく頷いて見せると、
「……お考えをお聞かせ願います、我が君」
 そう問いかけ、一段高いところに設けられた座を仰ぎ見た。
「……アルセス卿、レイ=ラール卿の両名に命ずる。兵を率いて東方へ赴け」
「陛下!」
 アルセスとレイ=ラールは同時に声をあげた。
「陛下は我らに負けるとわかっている戦にゆけと仰せらるか!」
 怒気もあらわに立ち上がったアルセスを側にいた者達が押さえ込んだ。
「偉大なる陛下にたいし奉り無礼であろう、アルセス卿」
 宰相はそう嗜めた。
 嫌な笑いだ。
 レイ=ラールは思った。
 アルセスは口惜しそうに自分を押えている手を振りほどいた。
「アルセス卿!」
「わかっている! ……私が軽率であった」
 一礼して席に着くアルセスを向かいに座るレイ=ラールが見た。目が合った。
 レイ=ラールが頷くと、アルセスも頷きを返した。
「我が君」
 レイ=ラールはそう壇上に呼びかけた。
「我ら二人の考えは、先程の討議で申した通りです。今再び兵を起こせば、陛下に対する人民の信頼は失われましょう。負けるとわかっておりながら戦に赴くのは愚かなことではありませぬか」
 それがおわかりにならないとは思いませぬ。聡明なる我らが王よ。どうか、道をお誤りなさいますな。
 レイ=ラールは真っ直ぐな目で敬愛する主君を見た。王はその目に狼狽の色を浮かべた。
 アルセスはそれを見逃さなかった。
 おかしい。そう感じた。鋭敏な王が今回に限って妙に歯切れが悪い。
 何か理由でもおありなのか。
 不審の目を向けるアルセスに気づき、宰相は皆の注意を王からそらせるように口を開いた。
「戦を前にして臆すとは、勇猛な御二方の為さることとは思えませんな」
 嘲笑と取れる笑いを浮かべる宰相に続いて、人々が口々に悪し様に言った。
「征旅の将たるは武人の栄誉」
「それよりも己が生命が惜しくなったか」
「諸国に響いた貴殿等の勇名も地に落ちたものだ」
 そこまで言われては、武人としての、一軍の将としての矜持が許さない。
 もはや何を言っても無駄か。
 そう思い、レイ=ラールが勅命を受ける旨を伝えようと口を開くより早く、アルセスが言葉を発した。
「なるほど。確かにそこまで言われれば、我らも否とは言えますまい」
「アルセス卿!」
 驚いてレイ=ラールは友人を見た。アルセスは大丈夫だというふうに頷いて見せながら続けた。
「だが、私は王に忠誠を誓った身。勅命とあらば……」
「これは勅命だ、アルセス卿」
 宰相がすかさず口を挟んだ。
「……謹んでお受けいたします」
 アルセスの言葉に誰かが安堵の溜息をついた。
「レイ=ラール卿」
 促すように宰相はレイ=ラールを見た。
 レイ=ラールはもう一度、王を見ると、無言で頭を垂れた。
「では各々方、よろしいな」
 宰相はあらためて一同を見回した。
「ただ一つだけ、お願いしたき儀がございます」
 アルセスの言葉に宰相は嫌な顔をした。
「何か不服でも」
「よい。聞こう」
 宰相を制するように王が口を開いた。
「ありがとうございます」
 軽く一礼して一同を見回した。心配そうなレイ=ラールが目の端に映る。
「……此度の任は私一人にお遣わしください」
「な!」
 アルセスの申し出に皆一様に驚きの声を上げる。中でも一番驚いたのはレイ=ラールであった。
 いったい何を言い出すのかというような目で親友を見た。
「理由を聞こうか、アルセス卿」
「は。レイ=ラール卿の奥方は、初めての御子を身ごもっておられる。ただでさえ不安なところに夫の出征では、心労が重なりましょう。お腹の子にもしものことがあるやもしれませぬ」
「……真か、レイ=ラール卿」
「はっ。真でございます。しかし、あれも武将の妻なれば、私めのことは心得ております。アルセス卿のお心づかいはありがたく頂戴いたしますが、勅命を覆そうとは思いませぬ」
 きっぱりと言い切るレイ=ラールの瞳に嘘偽りはない。
「そなたは戦場に行くと申すのだな」
「御意」
 即座に答える。迷いはない。
「……レイ=ラール卿の国に対する忠誠心。それは今の言葉で十分すぎるほどわかった。そなたの忠節は称賛に値する。今回は奥方についていてやるがよい」
「陛下、それは……」
 宰相が驚いて口を挟んだ。
「かまわぬ。もう決めたことだ。……アルセス卿。お主はこうなっても行ってくれるか」
「私の願いをお聞き入れくださった陛下に背くような真似など、するはずがありませぬ。喜んで陣頭に立ちましょう」
 アルセスの言葉が会議の終わりを告げる言葉となった。 慌ただしくそれぞれが征旅の準備を行うために散っていく。
「アルセス!」
 御前会議の間から退出してきたレイ=ラールは先に退出していたアルセスを捕まえて詰め寄った。
「先程のはどういうつもりだ。お前一人を行かせると思っているのか」
「勅命だ。レイ=ラール」
「しかし……」
「何も、二人共死にに行かなくてもよいだろう」
「アルセス……」
 口を閉ざしたレイ=ラールにアルセスは笑顔を向けた。
「なあに、心配するな。この俺がむざむざやられたりするものか。お前は奥方の側についていてやるがいい」
 そう言って肩を叩くアルセスに、レイ=ラールは何も言えなかった。アルセスの優しさを知っているからこそ、共に行く、と言えなかった。言えばかえって悲しませることになる。
「アルセス」
「何だ?」
「すまない」
「……俺が勝手にしたことだ。お前が謝ることなど何もない」
 だから謝るなと、アルセスは言う。わかっていたが、言わずにはいられなかった。
「……すまない」



「……すまない」
 ぽつりと洩らした言葉にアルセスは苦笑を浮かべた。 先程運ばれてきた酒もまた、すぐに空となり、静かに降る月明かりの中、確実に時が過ぎていた。
「いつまでそのようなことを言うておるのだ。レイ=ラール。俺とお前の仲ではないか」
 だからこそ。アルセスの心遣いが身にしみてわかる。
「なに。次にこのようなことがあれば、俺の代わりにお前に行ってもらうさ。今回はたまたま俺であっただけのこと。……お前であってもきっとああしたさ」
「ああ、そうだろうな」
 事実そうであろうから否定はしない。
 もし、アルセスに細君があり、身ごもっているのであれば……。
「アルセス。お前決まった女性はおらんのか。もしいるのであればこのようなところで俺と酒なんか飲んでおらずに……」
 突然気づいて慌てて席を立つ。もしそうであればその女性に申しわけない。
「おらぬよ」
 杯をあおって自嘲気味に言った。
「もしいたのであればいくら俺であってもあのような申し出はするまいよ」
「そうだな」
「ああ。不甲斐ない俺のことなど気に掛けてくれるな。お前は美しい奥方のことだけ考えておればよいのだ」
 友の言葉に頬を赤らめ、席に戻り杯を睨む。アルセスはそんなレイ=ラールに好意的な笑みを向けた。
「お前も良い女性を見つければ……」
 そう反論して見せるレイ=ラールに不敵な笑みを刻んで口を開いた。
「この戦から帰ってきたらそうするつもりだ。後でお前が悔しがるような美女を射止めて見せるさ」
「……楽しみにしているよ」
 最後の酒を二つの杯に注ぐと、レイ=ラールは微かに杯を掲げた。
「武運を」
 二つの杯が重なり、澄んだ音を響かせた。
 アルセスは静かに杯を置き、立ち上がった。
「行くのか」
「ああ。出陣を明日に控えて酔い潰れてはいい笑い者だ」 闊達な笑声を上げる友を見て、密かに祈った。
 願わくは、せめて、今夜の月が、長く空にあらんことを……。



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