「……もうお帰りになられるのですね」
静かに歩み寄る小柄な影にレイ=ラールはそっと手を貸した。
「お加減はいかがか」
優しく尋ねてくる夫の友に、柔らかな微笑を返しながら、レイ=ラールの妻は深く頭を下げた。
「礼はいらぬ。それはこのレイ=ラールにも申したことだ。レイ=ラールのようなよい御子をお産みなさい」
「アルセス様」
小さい、けれど、しっかりとした声。
彼女を間においてレイ=ラールと争ったこともあった。
聡明で、美しい。かつて愛した女。
「何か?」
「お気をつけて。一日も早いお帰りを」
夫人はちらっと夫の顔を見た。レイ=ラールが頷くのを見て再び口を開く。
「無事お戻りになったら、どうかこの子の名付け親になってくださいませ」
アルセスは、驚いたようにレイ=ラールを見遣った。
「二人で決めたことだ」
レイ=ラールは笑顔で親友を見た。
「……俺などでよいのか? 初めての子だぞ」
「ぜひ、アルセス様に」
「…ならば。喜んでお受けする」
笑顔で言い、背を向ける。
立ち去るアルセスの後ろ姿に彼女は小さく祈りの言葉を捧げた。レイ=ラールはそんな妻の肩にそっと手を置き、黙って月を仰いだ。
この時、レイ=ラールは、漠然と沸き上がる不安を拭い去ることができなかった。
翌朝。大軍を率いてアルセスは征旅に旅立った。
「レイ=ラール将軍! レイ=ラール将軍はいらっしゃるか!」
アルセスが旅立ってからいくつもの夜が巡り、月日が流れたある日のこと。朝の静寂を破るように何者かが門戸を叩いた。
「お前は何者だ! 素性の明らかでないものに気安く門を開けるわけにはいかぬ!」
「重大なことなのだ。将軍にお目通り願いたい」
「何事だ」
その時、門での騒ぎを聞きつけたレイ=ラールが姿を現した。
「これは、ご主人様。この者がご主人様にお会いしたいと申しているのでございます」
門番の男はそう言い、不審そうに男を見遣った。それもそのはず。訪ねてきた男は、埃にまみれ、身に付けている甲胄のあちこちには血が付着している。しかし、レイ=ラールにはその男の顔に見覚えがあった。
「お前は、アルセスの部下の……」
「はい。タガートと申します」
初めて男は安堵の色を見せた。
「とにかく中へ」
タガートを自分の部屋に招くと、いったいどういうことか、と問うた。
「我が軍は優勢だったのです」
悔しそうに唇を噛み締めながらタガートは語った。
「国境を越え、いくつかの戦闘の後、隣国の王都陥落まで後一歩というところまでいったのです。それなのに、将軍。それなのに、あろうことか味方が敵に寝返ったのです」
「何っ!」
勝利を目前に味方が寝返るなど聞いたこともない。窮地に追いやられてのことであるのならまだしも、何故そのようなことが。
「それで、アルセスはどうした!」
一瞬言葉に詰まったタガートは、それでもレイ=ラールの瞳を真っ直ぐに見据えて己の責務を果たした。
「アルセス将軍は戦死なさいました」
ある程度予測はしていたが聞きたくない言葉だった。
「……誰に殺られたのだ。あのアルセスを負かすことができるとはさぞ名のある武将なのであろう」
押し殺した声が答えを拒むことを許さなかった。
「……アルセス様は、潰走する味方の最後尾に立ち、陣を建て直そうとしておられたのですが……」
言いよどむタガートをレイ=ラールは真っ直ぐに見据えた。タガートはそのレイ=ラールの瞳に出会うと観念したように先を続けた。
「敵の刃から味方を庇った拍子に体勢を崩し、その時飛来した矢が、運悪く脇腹に刺さったのです。それでも、アルセス様は最期まで指揮をとることを止めず、残った味方を戦場から離脱させると、副将のカシム様に後事を託してようやく剣を置かれたのです」
剣を置く。即ち武人の死を意味する。
「私は、アルセス様の最期の言葉をレイ=ラール将軍に伝えるために、本陣より一足先に戻って参りました」
一呼吸おいて、タガートは口を開いた。
「『先に逝く。約束を違えてすまなかった』と」
アルセスらしい言葉に訳もなく笑いがこみ上げてきた。
「アルセスは最期までアルセスであったのだな。ならば、私からは何も言うまい。……ご苦労であった、タガート。しばし休んでいくがいい」
言い置いて部屋を出た。
庭の土は朝露にしっとりと濡れている。
互いにこうなる予感はあったのだ。何故、あの時もっと強く引き止めておかなかったのか。今更言っても詮のないことではあったが、そう思わずにはいられなかった。
「……あなた」
「…あれが死んだそうだ。その子の名も決めずにな」
妻の抱く赤子に目をやってレイ=ラールは力なく呟いた。
妻は無事男児を出産し、後はアルセスの帰りを待つばかりであった。
「その子の名前、たった今決めた。『アルセス』だ。あれはそういうのが嫌いだからな。約束を破って先に逝ったことに対する嫌がらせさ」
「きっと素晴らしい子に育ちますわ」
夫人は、腕の中の赤ん坊をゆっくりとあやしながら、そう答えた。
「そうだな」
赤ん坊の小さな手が覗き込んだレイ=ラールの頬に触れた。それがひどく暖かくて、堪えていた哀しみが一気に溢れ出た。
「……アルセス……!」
小さな呟きは流れ落ちる涙に溶けた。
晩秋のひやりとした風がレイ=ラールの涙をかわかして吹き過ぎていく。
しばらくして顔を上げたレイ=ラールは、いつもの武人の顔に戻っていた。
「王宮に行く」
妻に告げて歩き出すレイ=ラールは、親友の死を受け入れていた。
彼には、果たさねばならぬ任務があり、アルセス亡き後はその任務は二倍に増える。
哀しみに浸っている時間などない。そう言っている夫の背中を見送りながら夫人は、澄んだ空を見上げた。
旅立つ前夜のアルセスの笑顔が脳裏をよぎる。
「あなたは嘘つきで酷い方ですわ。何もかもをあの人に押しつけて逝ってしまいましたのね」
それは夫に代わっての死者へのやんわりとした恨み言。
「本当に酷い方」
もう一度呟いて夫人は夫の後を追った。
夫人の腕の中では、赤ん坊が心地好い寝息を立てていた。
彼の人と同じ名を持つこの子の未来が幸福であるように。
そう、願わずにはいられなかった。
《了》
あとがき
「できた」とワープロから手を離してほっとした。書いてみたかったものではあったけれど、やはり難しい。『女性でありながら男性の美学に通じるものを持った人』と何かの占いで診断されて、なるほどな、と思わず自分で納得してしまったほど、武将というか武人というか(騎士も好きだけど少し違う)そういうのが大好きで、本当はアルセスの戦場のシーンも入れてみたかったけれど、知識と表現力がついてこなくてあえなく断念。いつか、ちゃんとした『戦記物』を書いてみたいなあと思いつつ、いろんな方向に手を伸ばしています(あ、そうでもないや)。ま、SF軍隊物も書きたいし、資料集めに奔走することのします。またよいのができれば、発表したいと思っています。
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