闇 の 哀 歌
     


 序章

 春とはいえ深夜になるとさすがにまだ肌寒い。公園の入口近くの街灯の下に誰かが立っている。漆黒の髪を風になぶらせて立っているのは若い長身の男だ。街灯に照らし出された顔は驚くほど美しい。人を待っているのだろうか、先ほどからじっと動かない。
「……なぁ、杜(もり)」
 初めて男が身じろぎし、自分の足下のものに話しかけた。
「予定の時刻よりかなり遅れているんだが」
 足下にうずくまっていたものがゆっくりと青年を見上げた。青い目をした銀灰色の猫である。猫は軽く伸びをするとひらりと青年の肩に飛び乗った。青年がそれに対して何か言おうと口を開きかけたとき、青年の前に新たな人物が現れた。
「清明(あきら)?」
 どうやら待人来たり、らしい。頷いて目の前の人物を見つめる。やってきたのは女だった。栗色の髪をした青年より幾らか年上の女だ。青年に比べると見劣りするものの十分美しい部類に入ると言える。
「それで」
「捜してほしい人がいるの」
「……詳しく話してもらえますね」
 そっと女を促してベンチに座った。
 時折吹く風が青年の髪を揺らしているというのに、女の長い髪はその風にそよとも揺れない。
 青年の肩の上で猫が小さく鳴いた。


 雑踏の中を縫うようにして歩いてきた清明は街路樹の下のベンチに腰を下ろした。
 黒を基調とした服装や、人目を引くはずの清明の美貌までもが奇妙に街並みに溶け込んでいる。
「杜、いるんだろう。おいで」
 呟くような呼びかけに、物音一つ立てず銀灰色の猫が姿を現した。
『どうしたのだ、清明。困っているようだな』
 猫が喋った。といっても清明の頭に直接響くそれは精神感応の一種だ。
「ちょっとね。ところで、何かわかったかい」
『あれのことか?』
 杜のいうあれとは目の前の通りで行われている現場検証のことだ。昨夜未明、帰宅途中のサラリーマンが何者かによって惨殺されたのだ。
「そう」
 困ったように微笑んで形の良い顎に片手を添える。
「どうも気になってね」
『別にかまわんが。これについてはもう少し時間がかかるかもしれんぞ』
「かまわない。お前のやりやすいようにやってくれていい」
『承知した』
 杜が清明の肩に飛び乗って、
『そういえば……』
 と何かを思い出したように言った。
『死因は鋭い牙によるものと推定。おそらく野良犬だろうと見当をつけているようだ』
「鋭い牙、か」
 考え込むように下を向く。
「……ありがとう。お前はもう戻っていてくれ」
『何か心当たりでも?』
「いや、ちょっとね」
 清明は言ってにこりと微笑むと立ち上がった。
「帰りは遅くなるかもしれないから」
 言うだけ言うと背を向けて歩き出す。杜もまたいつものことだと一つ頭を振り、人込みの中に消えた。


 赤い月が血に飢えて吠える。そんな描写がぴったりな夜。人気のないオフィス街に悲鳴が響いた。
 クスクス……
 黒い影が肩を揺すって笑った。月明かりに照らし出されるのは異形のもの。醜悪な顔に狂喜の色を浮かべる。足下に横たわるのは原形をとどめていない、元は人間だったらしい物体。アスファルトの上のそれは、赤い月の月明かりを浴びていっそう禍禍しく見えた。
 突如、闇が動いた。
「これはまた派手にやったものだな」
 凛とした声が響く。突然異形のものが飛び退った。
「ここ何日かの間に起こった殺しはお前の仕業だな。だが、そこまでにしてもらおう」
『誰だ、お前……俺と同じ臭いがする。同じなら何故邪魔をする』
「一緒にするな」
 苦笑しながら姿を現したのは清明である。上から下まで黒一色といった出立ちの清明は酷薄な笑みを閃かせ、それを見据えた。
「問わずとも判っているのだろう。我が同胞よ」
『ま、まさか……。魔を狩る者――』
 喘ぐように口を開閉させる。清明は黙って首肯する。するとそれはいきなり身を翻し闇の中へ紛れ込もうとした。
「待て!」
 制止の声にそれが振り返った。
 そして清明は見た。
 醜悪な顔にある二つの理性の光を。
「! お前は……」
 再びそれが身を翻す。
 追いかけようとした清明の右肩に突如激痛が走る。くっきりと爪の跡が付いている。痛む肩を押さえ、前方に目を向けたときには既にそれは去った後だった。

 魔を狩る者は、また、魔。
 人であり、また人でない。人間と魔の間に生まれた、魔を封ずる者――。
 その者は、人間界に悪影響を及ぼす魔物を封じる任をおった――


 マンションのドアを開けた途端、目の前の人物にぶつかりそうになった。
「何をやっているのだ、清明」
「油断した」
 怒っているような声音に答えながら振り仰ぐ。そこにいたのは人身に変じた杜であった。
「判ったからそんな恐い顔しないで治してくれないかな」
 黙然と頷くと、ぱっくりと開いた傷口にそっと手をかざした。手から淡い光が溢れる。
「……人の姿にならないとこの力が使えないなんて不便だな」
「文句があるのなら自分で治せ」
「私に治癒能力がないのを知って言っているだろう」
 完治した右肩を眺めながら言う。それにしてもどうして人身になった杜は自分より背が高いのだろう。
「逃げられた」
 とりあえず、どうでもいいことは頭の隅に追いやって、当面の問題を提議する。
「そんなことは言われなくても判る」
 諦めたように溜息をつく。
「そうでもなければ、傷を治してくれとは言わない。こちらが無理やり治すまでそのままが常なのだからな」
 完全に事実であるだけに言い返せない。
「麻耶(まや)様から連絡があったぞ」
 部屋でソファーに腰を下ろした清明にそう告げる。清明が促すと杜が一枚の鏡を手渡した。豪奢な飾りのついた鏡だ。主に清明達が連絡に用いる魔鏡である。
 現在存在する魔を狩る者は四人。その中で唯一の女。麻耶。
 その鏡に手をかざすと、表面にさざ波がわきたち一人の女の姿を映し出した。
 麻耶である。
『見つかっただろうか?』
 主語を省いて麻耶が訊いた。清明は気にする風でもなくそれに答えた。
「ああ、逃げられたが」
『清明が取り逃がすとは』
 妖艶な美貌が楽しげに笑う。
「殺すなというから手元が狂ったんだ」
『それはすまなかった』
 くすくすと笑う女を無視し、口調を改めて話を進める。
「明日の夜だ。それ以上は待たない」
 凍てつく夜を思わせる声。
『……』
「私に傷を負わせてただですむとは、よもや奴も思ってはいまい」
 言外に殺すと言って鏡の向こうを見遣る。
『承知した。御助力感謝する。失礼』
 鏡はただの鏡に戻った。そこに映る清明の顔が心なしか翳っている。
「明日、か」
 鏡を杜に手渡し、ぼそりと呟いた。
「どうかしたのか?」
「何でもない」
 一瞬かすめた漠然とした不安を振り払うように首を振った。首をかしげる杜へお腹が空いたと訴え、台所に去らせてからそっと溜息を洩らす。こういう類いの悪い予感ははずれたことがないのだ。
 自分と麻耶以外の二人を思って再び溜息をつく。
 ここ数日連絡が取れない。おそらく独自に動いているのだろうとは思うが。
「手を借りるほどのことでもないか」
 一人ごちて台所に向かう。何やらいいにおいが漂ってきた。


 喫茶店の入口の鐘は鳴らなかった。だが、息を切らした女は確かにそこに立っていた。全力で走った後のように息が荒い。女は文句なしの美女。茶色く長い髪、艶やかな赤い唇。しなやかで華奢な体躯。この美貌に対抗できる者はこの店には一人しかいなかった。
 相変わらず黒衣に身を包んだ清明である。
 女は店の中の視線を一身に集めていることなど全く無視して店内を見回す。そして清明のところに視線を固定させると、呼吸を整えつつ口を開いた。
「……清明、あの人が……現れ……て……。とにかく、……逃げられて……手を、貸して……ほしい……」
 途切れ途切れに用件を告げる女に請われて立ち上がる。
「……麻耶」
 傍らに歩み寄ってその体を支え、名を呼んだ。瞳でそれ以上の発言を制して、裏口に向かい、外へ出る。
 と、傍らの女がその場にくずおれた。
 女の背中が赤黒く染まっている。
「麻耶」
 静かに呼びかける。
「すまない。この様では、私も清明のことは笑えんな」
 自嘲を込めて見上げる瞳が苦痛に歪む。
「そんなことはどうでもいい」
 麻耶を楽な姿勢に横たえると思念を飛ばして杜を呼ぶ。 一瞬の間をおいて、何もない空間から杜が現れた。瞬間移動である。
『麻耶様、どうなされました』
 猫から人へと変化しながら尋ねる。いくら杜でも他の者に対してまでは無礼な口はきかないらしい。清明に対するときとは態度が雲泥の差である。
「杜か。すまぬが、頼む」
「かしこまりました」
 杜が麻耶の傷を癒していくのを黙って見守っていた清明が不意に口を開いた。
「まだ庇うのか? 麻耶」
 はっとしたように顔を上げる麻耶を見据えながら言を継ぐ。
「あの事件を起こしてるのはお前が追っている奴なのだろう。それでも、まだ奴を庇うつもりなのか」
 魔物が人間界に干渉した場合、待っているのは魂の再生もない永遠の死。しかし、麻耶は生かして捕らえるよう清明に申し出ていた。無論、事件のことは伏せて。
「……ええ」
 低く、だが、きっぱりと言い切った麻耶の顔に迷いはない。すると清明は、ふっと表情を緩めて口端に薄い笑みを浮かべた。
「ならば、私が口を挟むことではないな。今宵のことは麻耶一人に任せるとしよう。私は手を出さないから、お前の手で本来在るべき場所に還えしてやるがいい」
 ああ、清明は知っているのだな。
 傷の痛みが和らいでいくのを感じながら思った。
 あの人と最初に出会ったのは私ではなく、双子の姉であった。
 魔を狩る者として生を受けた姉は、魔物を狩るために奔走していた。その姉が、ある時、思わぬ失態をおかし深手を負った。そこを助けられた。
 人間のあの人に――。
 二人は一目で引かれ、そして愛しあった。だが、それも長くは続かなかった。
 人であり、人でない。魔物にもなりきれない。そんな姉は、いつしか人間のあの人との間に越えられない溝があることに気づいたのだ。
 姉は、あの人のもとを去った。
 それで終わるはずだった。
 だが悲劇は続いた。
「……あのとき、私がいらぬ世話をやかなければ」
 痛みを堪えるような麻耶に清明が手を伸ばしてその肩を抱く。
 傷は既に癒えている。けれど、彼女の心の傷は癒されることなく赤い血を流し続けている。
 姉が去ったあとも、あの人は姉を愛し続けた。毎日姉の来ない部屋で姉を待ち続けた。
 日に日に痩せ衰えていく彼を、黙って見ていることができなくなった私は、彼を連れて姉に会いに行った。
 私は何も知らなかったのだ――。
 人間が、魔物と同じ空気の中で生きられないということさえも。
 私には、魔を狩る者としての力は備わっていなかったが、双子の絆のおかげだろうか、姉がどこにいてもその居場所がわかった。
 私達が到着したとき、姉は一匹の魔物と対峙していた。 止める間もなかった。
 彼は姉の姿を見ると、喜んで駆け寄った。姉の制止も間に合わなかった。
 衰弱しきった彼には何の抵抗力もない。魔物から噴き出す妖気が彼を襲った。
 あの人は姉の目の前で醜い瘴鬼に姿を変えた。そして姉は発狂して死んだ。
「私があの人と姉を殺してしまった」
 麻耶は低く呟くとゆっくりと立ち上がった。



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