「……あの人はまだ死んでいないの。茫然と立ちつくす私の前からあの人は姿を消した。でも、やっと見つけた。例の事件にあの人が関わっていることを知ったとき、思った。私の手で殺してしまわなければ、と」
 それが、せめてもの償いだった。
 清明は小声で何事か杜に命じると麻耶を促した。
「行こう、彼が待っている」
 こくりと小さく頷く麻耶の肩を抱き、立ち上がった。 次の瞬間、三人の姿が消える。それを見たものは、路地を吹き抜ける風のみであった。


 夜が刻々とその存在を増していく。空が深い藍色を宿す、逢魔が刻。
 しんと静まり返ったオフィス街に、二つの影が佇んでいた。艶やかな女と美貌の若者の二人連れである。二人は無言のまま時を待っている。
 そう長く待つ必要はなかった。 
 一陣の風が吹き抜けて清明の髪を揺らした。刹那、清明は一歩後ろに下がった。これは自分が出しゃばることではない。当人達の問題だ。
『……お前は、誰だ。俺と同じ臭いがするぞ。後ろの男は知っている。……この間俺を襲った奴……お前達は本当に……』
 闇の中から這い出るようにそれはやってきた。二人の気に引かれてきたとも言える。
 麻耶が進み出る。
 その顔は無表情の仮面に覆われていた。仮面の下でいったい彼女は何を思っているのか。
「我、魔を狩る者なり。魔界より迷い出し我が同胞よ、我と共に安らぎの闇に帰らん……」
 姉の死と共に受け継いだ力。私には、姉の代わりに果たさなければならない役目がある。
『魔を狩る者……っ』
 それは驚愕に目を見開き体を硬直させる。その眼前で麻耶の姿が妖艶なそれとなる。
 纏う気は紛れもなく魔を狩る者に相応しきもの。
『魔を……狩る…者…』
 呟きながら瘴鬼の目が爛々とした光を放つ。締まりのない唇から涎が垂れる。それが糸を引いてアスファルトに落ちると、たちまちアスファルトは白煙をあげて溶け出した。
『……魔を狩る者か、その肉はさぞ美味かろう』
 言うや否や凄まじい咆哮を上げて飛びかかった。麻耶は横に跳んだ。胸の前で交差させた両手の爪が長く伸び、鋭い武器となった。再び襲ってくる瘴鬼を交わし両手を閃かせた。どさりと鈍い音を立てて瘴鬼の腕が落ちた。その腕から噴き出した血が、アスファルトを赤黒く染めていく。
「我と共に帰れ」
『グルルル……』
 瘴鬼は答えない。麻耶は身構えた。が、報復はこなかった。隻腕となった瘴鬼は突然攻撃目標を変えた。麻耶から少し離れた場所に静かに佇む清明に。
 麻耶より清明のほうが劣るとでも思ったのだろうか。 だが、それは間違っている。少なくとも今は。
 いつ顔を出したのか銀色の月が皓々とあたりを照らしている。
 美しい月夜。その下に佇む青年は影までもが夢幻的なまでに美しかった。
 銀の月光を紡いで造り上げたかのような白い繊手がゆっくりとした動作で持ち上げられ、鋭く振り下ろされた。 銀のきらめき。
 左手に顕れた美しい剣が、襲いかかった瘴鬼を鋭い一閃で斬り伏せた。その剣を持つ左手の甲に真紅の輝き。 紅玉の魔石は魔を狩る者の証し。
 夜を駆ける美しき狩人。
 地面にのたうつ瘴鬼を冷ややかに見遣り、一点の曇りもない美しいままの剣を闇に還した。清明はその形の良い唇に苦笑を刻むと麻耶に短く詫びた。
「すまない。約束を違えてしまったな」
「いや」
 麻耶は足下にうずくまる瘴鬼に歩み寄り、淡々とした様子でそれを見下ろした。
「……愚かなことだ」
 その瞳から既に戦意は消えている。
 静かに仮面が剥がれていく。
 哀しいまでに真摯な瞳が醜い魔物を見つめた。
『グルルル……』
 苦しげな呻きが醜悪な牙の間から洩れる。その傍らに膝をつく。
「ごめんなさい」
 麻耶の掠れた声に続いてその腕が振り下ろされた。
 絶命は一瞬だった。
 瘴鬼の形が崩れていく。崩れて、崩れて、その下から現れたのは一人の人間の男だった。
「!」
 麻耶の瞳が大きく見開かれる。
 あの人だった。
 唇が小刻みに震え出す。あの頃の面影をそのままに残した、姉が愛した人。
 男はゆっくりと目を開けた。しばらく視線をさまよわせていたが、自分の傍らの麻耶に気付くとそっと手を伸ばしてその頬に優しく触れた。
『……泣いているの……』
 優しい声音に麻耶は始めて自分が泣いていることに気付いた。
『泣かないで』
 あやすように髪を撫でてにっこりと微笑む。
 名を呼ぶ。
『静音(しずね)』
 と。
 麻耶は痛みを堪えるように目を細める。静音とは姉の名である。
 ああ、私はこの人を愛していたんだ。姉さんを愛するのと同じくらい愛していたんだ。なのに、私は愛する者をこの手で殺してしまった。 
 自責の念が熱い涙となって溢れ出してくる。
 どこかで猫が鳴いた。
 清明はじっと動かない麻耶の肩に手をかけた。虚ろな表情で目を上げた麻耶は、清明が宙へ差し伸べた手を取る人物を見た。
「ねえ、さん……」
 それは静音であった。麻耶と同じ姿の向こうに夜の街が透けて見える。実体ではない。
「……ある晩、私は彼女に呼ばれた。そして依頼を受けた。――恋人を捜してほしいと」
 清明が淡々と言葉をつなぐ。
「私は引き受けた」
 麻耶は無言で姉を見つめている。静音は麻耶に向かってにっこり微笑むと、横たわる男の側に立った。
 そっと手招きする。
『行きましょう。今度こそ二人で』
『ああ、そうだね。二人で』
 ふわりと男の体から魂が分離する。
『さよなら。もう一人の私』
『ありがとう』
 その言葉で麻耶は救われたような気がした。自分には受ける資格のない言葉。それでも嬉しかった。罪が償え切れたかはわからなかったけれど、彼らは許してくれた。それだけが心の傷を温かく包んでいく。
 麻耶の瞳から溢れた涙が再び頬を伝った。
 二人はもう一度微笑し、そして寄り添うように月の光に溶けた。それが最後だった。残った男の体は灰となり、風にさらわれて消えた。
「ありがとう、清明」
 座り込んだまま、麻耶はぽつりと呟いた。
「……私は何もしていない。礼を言う必要はない」
「それでも、言わせてほしい。……ありがとう」
 立ち上がった麻耶が空を仰ぐ。
 二人の消えた空を。
 ありがとう――。
 消え入るような呟きは誰に対してのものなのか。
 無言で空を仰ぐ麻耶に背を向け、清明はゆっくり歩き出した。寄り添うように銀灰色の猫が続く。


 終章
「清明、麻耶」
 突然、静寂を破るように声が降ってきた。
 間違いなく空から。
 間髪を入れずに、二つの人影が清明と麻耶の前に降り立った。
「ご苦労さま」
 麻耶が、少し慌てたように涙を拭って笑顔で迎えた。清明も足を止め、久しく会っていなかった仲間達に笑みを浮かべる。
 現れたのは、残りの狩人。皓と水城の二人である。
「元気だった?」
 水城が訊いた。それに続いて皓が口を開いた。
「連絡を試みたんだが、どうもうまくいかなかった。何かあったんじゃないかと思って来てみたんだが」
 言葉とは裏腹に不敵な笑みを浮かべた皓を、清明は懐かしそうに見つめた。 
「……さあ、何かの予兆じゃなければいいけど」
 清明の呟きに、三人が頷く。

 青い闇の中で、静かに、そして確実に歯車は回り出していた。


                  ―― 完 ――



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